仕事は五年前の足の手術前から休業。育児も介護もなく、今は最低限の家事だけ。
人一倍目一杯がんばっている夫に、「私だけ楽しててごめんね」と申し訳ない毎日。
そうしてここ数年、莫大な時間を何にもしないで過ごした。
人生の浪費とはまさにこのことだが、これだけ時間がたっぷりあって、ようやく気付いたり、思い及ぶことが出てきて、近頃は新鮮な喜びや後悔を味わっている。
五十年も生きてきて今頃そんなことを言ってるの?? と呆れられそうな事ばかりだが、今までだってこの場で赤裸々に白状しているのだから、恥を忍んで・・・。
例えば。
洗濯。夫の衣類を洗濯機任せで済ませるだけだったのが、漬け込み時間を変えたくてマニュアル操作し、風呂の残り湯を使ったり、干し方を考えたり。すると、長年こだわりなく決まったものを買っていた洗剤を別のものにして、効果や香りの変化に嬉しがっている。
面倒に思っていた鳥かごの敷き紙を、週一から二、三日おきに替えるようになった。小鳥の餌を、栄養の高そうなものはと見比べ、買い換えてみたり。
家の中の不要なものを捨てようとゴミをまとめるうちに、普段の食品や日用品のパッケージがけっこう嵩高いと気付いた。空き箱やパック容器をたたんだり、押しつぶしたり、鋏で切ったり。コーヒーや調味料、洗剤は詰め替え用を探してしまう。
台所や洗面台で、今まで無造作に流していた水道の水を絞り、こまめに閉栓するようになった。
野菜は流水ではなく溜めすすぎに、お鍋を火に掛ける時間と火力を一々考え込んで。
こんなふうに次から次へと気になって、変えながら、「今までの私は一体何を見、どうやって生きていたのだろうか」と驚く。
その上・・・。
つい昔のことが思い出される。ふいに記憶が・・・自分のした愚かなこと恥ずかしいこと酷いことが蘇ってきて、「あああ」と叫びたくなる。
学生時代に友人に発した暴言や意地悪、社会人になってからの無礼で無様な振舞い。なんて私は視野が狭く、無知で、思いやりのない人間だったことかと、頭を抱える。それらはもうとりかえしが付かない、犯した罪が償えないと思うと、生きているのが恥かしい。そして、なんとなく、自死を選んだ太宰治や芥川龍之介もこんな気持ちだったのかしらと考えたりする。
時間があって、家にいて、新しい体験が少ないからだろう、思考は過去を辿る。
謝りたい。謝罪したいという思いが募り、昨日、一人だけ、高校時代の同級生に手紙を出した。久しぶりに会って話したい、と。
振り返って反省している五十歳余の私も、例えば二十年後に見ればまだまだとんでもない愚か者なのか。人は命ある限り成長できるのだとしたら、それはとても幸せなことだし、同時にどこまで行っても恥かしい自分なのだから、嫌になっちゃう。