明日は結婚記念日だ。が、私はこういうイベントに演出が出来ない。気の利いたプレゼントも選べないし、料理も腕がない。二人で美味しいものをと思っても、普段通ってる回転寿司やおうどんといったB級グルメ好きだし、平日では翌日の夫の仕事が気になって寛げない。せめて食後にケーキでもと思っても寝る前に胸焼け胃もたれが懸念されるお年頃である。結局、「特別なことしなくていいよね」と夫に念を押しておくのだ。
こんな調子で24年がたつが、子どもがいないからだろう、時が止まったような感じがしていて、結婚式の日をすんなりと思い出せる。
以前も書いているかもしれないが、へそ曲がりな花嫁の父の反対を何とか凌いで、交際5年半にして結婚式にたどり着いた私。当日はもう嬉しくてホッとして、高砂の席でずっと微笑んでいた。花嫁の手紙も読まず、涙目の父に大きな花束を渡して、披露宴を終えると、夫の入社同期の数人と居酒屋で和やかな二次会。
午後十時に店を出ると、雪が舞っていた。街のそこここにクリスマスツリーが瞬いている。空を見上げながら、
「ねえ、もう夜遅くに帰っても誰にも怒られないんだね」
「そうだよ」
「おんなじ家に帰れるんだね」
「そうだよ」
あの時の開放感、万能感は生涯忘れられないだろう。あの日、第二の人生が始まった。
その夜は披露宴をあげたホテルで眠り、翌朝生まれて始めての海外旅行へ。スーツケースを引いてロビーからエントランスを出ると、真っ白な世界が広がっていた。
結婚式の日のことで、もう一つ今も心にあるのは夫の言葉だ。
司会者さんが新郎新婦にインタビューの時間に。
司「今日のお相手をご覧になって感想は?」
夫「白いです」(布量の多いウェディングドレスだった)
私も真似して「白いです」(夫は私に合わせて白いタキシードだった)
「どんな家庭を築きたいですか?」
夫「強い家庭です」
司「え、強い? 明るいとか笑いの絶えないとかじゃないんですね。新婦は?」
私も「強い家庭です」
と会場が軽い笑いになるよう答えをかぶせた。
その時は深く考えなかったが、ヘンな答えだなとは思っていた。
その後、夫婦二人の比較的平穏な生活にも、当然だが大波小波があった。家族の病気や死去、車の盗難、事故、仕事上の厄介ごとや小さな自治会トラブル、私の父の素行不良と認知症、エトセトラエトセトラ。
あれは結婚して十年くらいの頃か、父が軽度の認知症になり、骨折入院中の病院で暴れて、泊りの付き添いが必要になった。大腿骨がきちんと直らないと、父は寝たきりになってしまう。固まるまでの三週間、油断がならない。私ばかりでは体を壊すと、夫が交代で泊まると譲らない。で、そのようにするが、夫は泊まった翌朝、病院から出勤することになる。朝、私が交代のために7時に行くと、目の下に隈の出来た笑顔を作り、よれたワイシャツで夫は病室を出て行った。ふと見ると、サイドテーブルにペットボトルのホットミルクティとレジ袋には病院向かいのパン屋さんのまだ温かいパン!!慌てて携帯電話をかけ、
「アナタ、朝ごはんを忘れて行ってる!まだ電車乗ってないでしょ、私今から持ってく、駅で待ってて!」
「ちがうよ、それ、キミの朝ごはん。あったかいうちに食べなさい」
私は打ちひしがれた。
私と結婚したばかりに夫はこんなにも苦労を強いられる。離婚と言う選択肢もあるというと、夫は
「何言うてるんや、当たり前のことや、二人で何とか出来るやないか」
と揺らぐ様子がなかった。三週間後、父はしっかりと自分の足で歩き、徘徊するまでに回復した。
その後も、何かあるごとに、すぐに嘆く私と違い、夫は一歩も引かず私の手をしっかりと取り、むしろ立ち向かうようだった。
いつしか私はあの言葉を浮かび上がらせるようになっていった。
「強い家庭」とはこういう意味だったのか、と。
何かある毎に、夫は強くなる。
近頃は比較的凪いだ夫婦の暮らしも、この夏私が脱臼した際には、夫の行動力と細やかな気遣いに改めて圧倒された。
こんな夫と私は釣り合っているかしらと、いまだに自信がない。夫婦のことは夫婦にしか分からないなんていうけれど、夫婦にだって分かるもんか(笑