待っててくれる

 明るくなるのがめっきり遅くなった上に、今朝は雨降りで尚更暗かった。薄闇の中を黒い傘、黒い上着の夫が歩いていく。振り返って手を振って角を曲がっていった。私は振り返した手を下ろしながら、ふいに考えてしまった、なぜ姿が見えなくなるまで見届けるのだろう、と。ロボットなら別れてすぐに踵を返すのだろうか。なぜ今朝はそんな事を考えるのだろうか。いつもしている、当たり前の事の筈なのに。これは、あの感じに似ている。ほら、字を書いていて突然その字がこんな字だったっけとコンガラがってくる…そう”ゲシュタルト崩壊”だ。
 ふうと少し息を吐いて、門扉の内へ収まり、玄関でサンダルを脱いで、電灯のスイッチへ手を伸ばしたものの、消さなかった。もし夫が忘れ物か何かで引き返してきた時に、つい今まで明るかった玄関が暗かったら、自分が出かけたらさっさと家が外の世界を遮断したように感じないだろうか。念の為に、玄関のオレンジ色の照明と、白っぽい門灯をそのままにした。数分だけ、これは私自身の気休め。
 私が仕事をしていた時、夫の休みの日に出掛けるのは嫌で、グズグズと靴を履いていると、夫は必ず「早く帰っといで」と送り出してくれた。
 大学時代、実家から1人暮らしの下宿に戻る時には、やはり玄関先で父が。
「早よう帰っといで」
 そう言われると、ほっとしてバス停まで駆けていけたっけ。