4日前に父が亡くなった。

 4日前に父が亡くなった。
 ブログなんか書いている場合かと思う自分を抱えながら、何となくぼんやりとこれまで通りの習慣で葬儀の間留守にしたこのページを開いている。
 今この時、こんな時に、何が書けるのだろうと思う自分がいる。自分の中から何が出てくるだろうか、何を出しておきたいのだろうか。
 
 まず、急死であったこと。
 父の事はつい最近も書いていた。先月と、10日前と、施設の父を訪ねた時に。いずれも父は変わりなく、痛むところもなく、元気にしていた。軽度の認知症が進むこともなく、私を娘とちゃんと分かっていて、まだまだ時間の猶予が与えられている、ということを書いていた。
 ただ昨年、風邪で出した熱が3週間も続いた時に、”ああやはり85歳の体力なのだ、何かあったらガタガタと崩れてしまうのだ”とは心に留めていた。
 10日前に私が訪ねた時は何事もなかった。その2日後、つまり8日前に弟が訪ねると、前日からお腹を壊しているとのことだった。が、父は受け答えもしっかり出来ていて、高齢の方を見慣れている職員さんが心配するような状態ではなかった。
 5日前、施設から電話があった。深刻ではないが下痢が続いていて、前夜とその朝とご飯を食べなかった、一度受診してはどうか。なので、翌日に私が付き添って病院へ行くことを決めた。
 通院予定だった4日前、いつも通り夫のお弁当を作っていた5時半過ぎに、居間の私の携帯の着メロが鳴った。この時間だもの施設に違いない、父の容体が悪化したのだろう。もう起きて居間に座っていた夫の傍を通って電話に出た。
 男性の声が落ち着いているが重い。急いで駆けつけろと言われる筈なのに、あまりにゆっくりだ。”今朝4時に職員が見回りした時は父はごそごそしていて、声をかけると「しんどい」みたいなことを答えた。次に5時過ぎに行くと、もう顔面蒼白で呼吸をしていなかった。直ちに主治医を呼んだが…。お亡くなりになったということで今死亡診断書を書いてもらっている”。
 携帯からとつりとつりと届いてくるその内容を、私は耳で噛み締めるように聞いていた。腰から下、足がかすかにすうっと冷たくなるのを感じていた。
 あとは私が施設へ伺う時間を伝え、葬儀社の手配について少し話し、電話を終え、夫に話すとやはり驚くばかりだった。弟にも電話で知らせて、さて支度をと思うが、あたふた手につかず、…とりあえず夫の黒ネクタイや数珠やらを出し、数珠と一緒にまとめていた袱紗は今回は要らないんだ、等とふわふわしたままだ。急がなきゃ、いやもう急ぐ必要はないんだ、だから施設の人の話すスピードもゆっくりだったんだな。このあと食事が出来ないかもしれないから朝ごはんを食べておいた方がいいと夫が言い、お弁当用だったおかずでご飯を食べて出掛けることにした。
 父の死を聞いた夫は、片手で私の頭を引き寄せ、もう片方の手で私の体を抱えてくれた。父子家庭で育ち、とりわけ父と良かれ悪しかれ繋がりの深かった私がどんなにショックかと慈しんでくれたのだった。しかし私は落ち着いていた。少し前から”私は父が死んでも泣かないんじゃないかな”と思い、口にしていたことがある。やはり泣かずにいた。ただただ、遂にこの日が来たと思うばかりだった。

 今日先ほど喪主を務めた弟から、位牌の手配にあたり、母の没年を尋ねる電話あり。お世話になった葬儀社の方が葬儀費用の精算その他でお見えだという。少ししてラインで請求書の写真を、また電話で初七日の日取りについて。
 この度、父と母を夫婦位牌で祀ることになる。42年ぶりに一緒になれる。