宙ぶらりん

 駅から帰りに乗ったバス。向いの席から2人のご婦人の会話が聞こえた。
「猫の餌買いに来たの、1人4個迄やけど安くなってて。最近1匹減って3匹になったわ」
「うちも減ったわ。こないだの台風以来顔見せんようになって」
「凄い風やったけど、どないしてたんやろね、可哀想に」
 あれ、飼い猫じゃなく、どうも野良猫の話らしい。
 その後2人と同じバス停で降りて納得。バス停の向かいに、玄関前にいつも猫の餌皿と水の器が置かれているお宅があって、よく数匹の猫がたむろしているのだが、先ほど猫の餌を買ったと話していたのはなんとこのお宅の人だった。猫好きの私は通りかかる度、猫がいるかどうかを確認し、姿を見ては目を細めている。
 野良猫に餌を与えることには賛否ある。野良が野良のまま繁殖しない為には給餌しない方がいいに決まっている。けれど目の前に骨の浮いた体で餌を求めて見上げる猫がいたら。
 幸か不幸か、7年前の私は決断を免れた。我が家の庭にふらりと現れた野良猫には片耳にV字の切れ込みがあった。いわゆる地域猫。ボランティアさんのお世話になって避妊手術を受けた野良で、繁殖できない一代限りの命だから大目に見て下さい、という印だ。当時はこの家に引っ越して日も浅く、野良猫に餌をやるにはご近所の目が気になったが、これなら言い訳が立つ(言い逃れ、かな^^;)と私は餌をあげるようになった。関わってみれば、この猫は非常に警戒心が強く、他の猫とも馴染めない臆病さんだから、我が家は他の猫には構わず、この猫を責任をもって大事にしようと決めた。時間をかけて少しずつ慣れ、今では我が家で寝起きする家族となったが、もしもこの猫の耳がV字に切れてなかったら、私はどうしただろうか、と時々考えてしまう。
 近所のマンションの駐車場で、三毛猫が蹲っているのに気がついたのは数か月前だろうか。たいてい塀の上で人待ち顔をしている。ある朝、餌を貰っているのを見た。昼過ぎにも夕暮れにも見かけるから、ここに住み着いているのだろう。三毛の白い部分がうっすら汚れている。毛並みがすこぶる悪い。過酷な環境ゆえ野良猫の寿命は5~6年だと聞いたことがある。これから寒くなって、野良には厳しい季節になる。大丈夫だろうかと思っていた矢先に、先日の超大型台風が。
 翌日、ポーチにキャットフードを忍ばせてそのマンションへ行ってみたが三毛の姿はない。どこか風や雨をしのぐ場所があると信じたいが、駐車場脇の植え込みに、ちょうどペットのキャリーケース大の木箱が置かれていた。これは猫の為に誰かが置いたに違いない。ということは、ここより他にいく所がないということにならないか。いや一時的に避難しているのだ。明日になればきっと…。しかし、4日目の今朝もまだ戻ってきていない。
 所詮は私の上っ面な薄っぺらな同情心だと自覚しているが、三毛のことを考えるとやっぱり辛い。
 他にも例えば食肉と畜産のことだとか、棚上げにしたままに生きている。こんな時だ、私に子供がいなくて良かったと思うのは。答えてあげられないのだもの。
 ただ、三毛が戻っても私の偽善心は解消しないのだけれど、明日こそ姿が見たい。これは嘘偽りない気持ちだ。