脱臼、の喉元。〇〇始めました

 喉元過ぎれば・・・の典型、ああ私はつくづく俗人。
 脱臼で味わった不自由、回復につれて取り戻す当たり前の日常動作。毎日が楽しい。
 ・・・と書いたのは、つい十日前のことなのに、この数日、ウキウキした感じが消えてしまった。認めたくないけれど、普通のことが普通に戻ってきている。
 もったいない、残念でならない。
 一年ぶりくらいに夫の手作り弁当を再開し、張り切っていたのに、ルーチンになりかけている。
 せっかくのあのシアワセな気持ちを、自分で生み出そうと考えた。
 で、決めました!
 一日一新。
 今日から、毎日、新しい事、初めての事をする。
 作った事のない料理や、掃除の順番を変えることだったり、どんなに小さくても新しい事をやってみよう。
 手始めに今日は、駅前の喫茶店でパフェを食べた。
 そんなこと? と言われそうだけど、私はこれまで滅多に一人で飲食店に入れなかったし、パフェは大好きだけどカロリーと値段が気になって手が出なかった。
 それを、思い切って、明日死んでもいい様にと・・・・そんなに大げさな事か?と笑われるけど、それぐらい思い切らないと、私はその店のドアを押せなかった。
 何年も、前を通る度ずっと気になっていたお店のパフェを食べた。
 結果は、惨敗である。
 フルーツてんこ盛りのミニパフェは、上のフルーツが邪魔で、大好きなアイスクリームが食べづらく、そのアイスは少なく、沢山入ったコーンフレークがホイップクリームとチョコソースにまみれたのをわしゃわしゃとスプーンですくって口へ運んだ。そうこうするうち、お店が混んできて、一人客の私は伝票を掴んで急いでテーブルを立ち上がった。
 なんともアイスクリームを食べたりなくて、余計にもやもやして、マクドナルドへハシゴしようとしたら、ここも外へ行列が伸びるほど混んでて諦めた。
 私は物心ついて以来、アイスクリームが大好きだ。真冬の屋外で、ソフトクリームを3本食べても満足しないし、お腹も壊さない。レディボーデンのマルチパックを一気に食べる自信がある。勿体なくてしたことないけど。死ぬまでに一度、バケツ一杯のアイスクリームを食べて、「ああもう食べられない、ギブアップ」と言ってみたい。つまり、生まれてこの方、アイスを食べて満足できたことがない。ああこの夢もいつかかなえよう。
 今日の挑戦、結果は好ましいものではなかったけれど、やってみて初めて分かることだし、これで心残りが一つ消えた。やってよかった。
 さあて明日は何をしようかな。私って恥ずかしいほど暇人だ^^;

脱臼、そして

 ひとは、いやいや、私はだ、痛い目を見なきゃ分からないんだと、つくづく呆れる。
 それでも気付けたのだから良かった。「過ちては改むるに憚ること勿れ」というではないか。
 脱臼を繰り返さないよう用心しろと言われた三週間が過ぎた。
 脱臼をしたおかげで、家の中のことが出来る喜びを日々噛み締めている。
 普通に、水道の蛇口がひねれて、包丁で野菜が刻めて、フライパンの中身を菜箸でかき混ぜられる。好きな時に自分のコーヒーや夫にお茶を淹れられる。そんな一々に幸せを感じる。掃除機を操って、床にちらほらする埃や毛を取り除けるのさえ清々と気分が良い。
 脱臼から三日間は医師から安静を言い渡されていたので、利き手の右腕を巾広のベルトと三角巾で固定し、家事一切を夫に禁じられ、外出を止められた。仕事で疲れた夫が買い物してきてくれた総菜を食べ、食後の洗い物も夫。
 三日が過ぎると、恐る恐るTシャツの脱ぎ着をし、散歩に出た。スーパーに寄って、さあ買い物ができると思ったら、右肩にはまだ重さを掛けられず、左肩も同様の骨の状態なので、力が入らず、レジカゴに大根を入れた途端、重くて、今にも関節が外れそうで、怖い。ジャンパースカートの肩ひもがずり落ちたのを直そうとしたら、タイトに曲げた肩の関節がねじれるような嫌な感じがするのだ。牛乳を買うのを諦め、軽そうなものだけを買って、逃げるように帰った。
 これは大変なことになった。私はもう普通にスーパーで買い物もできないのかと改めて慌てた。
 私の脱臼は、持病のリウマチの為か、骨がもろくなっていて、関節の一部が欠けて小さくなっていて、筋肉は落ちていて、簡単に外れる状態だったことがこの度分かった。
 せめてもう脱臼を繰り返さないために、骨を丈夫にし、筋肉を少しでもつけて。これまでの間食重視の食生活を齢五十過ぎて真剣に見つめ始めた。タンパク質とカルシウム、適度な運動。
 ネットでストレッチと食事メニューを検索していると、夫がバスの待ち時間に駅前のドラッグストアで、プロテインの飲料やスナックバー、カルシウムのサプリやらを沢山買ってきてくれた。ありがたい。本当にありがたかった。
 自分の動作と向き合ううち、一日一日、体が落ち着いて、動作が確かになってくるのを感じられた。怖かったレジカゴの重さが徐々に平気になっていく。体って凄い。直後の不安定さがどんどん薄れて、恐怖心も薄れていく。
 すると、今まで買わなかった野菜を手にし、ネットでレシピを検索し、わくわくと流しに立てる。今日はおツトメ品のバナナでついさっきケーキを焼いた。もうちょっとで焦げるとこだった(汗&笑。
 特別何かをするわけではないが、毎日が楽しい。五年前の足の手術入院だって、日常の不自由からの回復を体験していて、その時も気持ちに変化があったけれど、今回はなんだか違う。もっと地味にしっとりと心は寛いで。
 前回との違いは何だろうかと考えてみた。
 手術の時は傷と体力が早く癒えることを待っていた。しかしこの度は、ここがスタートでここからが勝負、というところがある。
 これまで私は好き勝手をやっていたのだ。自分のことは自分で済ませ、夫に迷惑を掛けないよう、夫の身の回りのことが出来ればいいと。結婚して二十三年と七カ月、こんなにも自分の体を見つめ、夫の好意によりかかり、大して夫の役には立たず、でも夫を思いながら、傍にいていいのだと安堵したことはなかった。
 人生の折り返しも過ぎたと考えていたが、まだまだぜんぜんなんだ。寿命が尽きる時までずうっと、目からウロコを落とし続けていくのだろう。いつだって生き直せる。

脱臼

 その日を境に世界が一遍する、とまではいかないけれど。
 冠婚葬祭ほどの一大事ではなくともキッカケになる出来事・・・病、事故、異動、諍い etc・・・は穏やかに繰り返す日々の中にポコンと浮上する。数年前の入院手術も心に変化をもたらしたものだった。習い事がしたくなったり、エコや断捨離を強く思ったり。
 そして、この度の、脱臼・・・。いろいろと考えることがあった。

 二週間前に、脱臼した。
 土曜の朝、自宅で右腕で力任せに掃除機を引っ張り寄せたら、抜けた。休みで在宅だった夫に病院へ連れて行って貰った。
 車で5分強に赤十字病院があり、随分前に通院したこともあり、迷わず向かった。
 土曜の午前、開いていた筈の外来が締まっている。夜間入口へ回ると、そこが救急受付になっていた。症状を訴えると、「事前にお電話は下さいましたか」と問われた。しまった、そうだった。自分の一大事に頭がいっぱいだったが、この時になって初めて『コロナ状況下』であることを思った。土曜だからなのか、コロナのためか、外来診察は行われていなかった。
 診察が可能か確認するのでお待ちください、と言われて、長椅子に掛ける。総合病院ならではの長く、四方へ伸びる通路の、至る所が閉鎖あるいはビニールシートで隔絶され、ほの暗く沈んでいる。
 だいぶ待って貰わなければならないがドクターが看ます、と言われ一先ずほっとする。
 診察室の前で一時間以上待った。その間、救急車が時折到着し、ストレッチャーでうめく老人が運ばれていき、顔色の悪い青年が看護師に導かれていく。ああここにはコロナ患者も運ばれてくるのだと気付き、ここにいることで、付き添ってくれている夫を感染の危険にさらしているのだと怖くなった。
 いよいよ処置となった。看護師さんは救急外来のスペシャリスト。外科医は若く、私くらいの小柄な美女。
 医師は事前に撮ったレントゲンとCTを確認し、右腕に麻酔をかけ、あっという間に治してくれた。
 さっきまで作っていた渋面が恥ずかしいほどほころんでしまった。
 しかし、問題がこれからであることを思い知らされる。
 夫共々聞いた説明は。
 脱臼はただでさえ繰り返しがちだが、あなたの骨は、リウマチの持病のためかは不明だが、骨がかなり脆くなっていて、この度の関節もすでに一部が欠けて小さくなっており、相当外れ易い。今後繰り返すようなら、人工関節にすることも。主治医とよく相談するように。
 が~ん。て感じで、診察室をあとにした。
 右がそうなら、左肩も同様の状態だろう。他の体中の骨も脆くなっているのか。恐ろしく思っていると、夫が
「五十肩じゃなかったんだ。ずっと痛い痛い言うてたのは、骨が削れてたんだろう」
 私は去年からの両肩、腕の痛みを五十肩だと思っていた。
 三日間安静、三週間は要注意。
 三日間の家事禁止を、帰りの車の中で夫に申し渡された。
 この土曜と日曜、夫は自宅での仕事を抱えていたのに、私が時間を奪った。専業主婦の私が、仕事で常々忙しくしている夫に、料理や洗濯、買い物までさせることがとても辛かった。
 月曜日は、「家でじっとしてるから」と約束し、いつも通り出勤して貰った。
 しかし、夫は始業前に上司に訳を話し、年休を取り、帰ってきた。
 私は盛大に夫に文句を言った。バチアタリ、お門違いは重々承知だが、あまりの後ろめたさ、引け目に感情を爆発させてしまった。
 対して夫は、利き腕の使えない家族をひとり家に残すオレの気持ちだ、迷惑云々じゃない当然のことだ、二人きりの家族じゃないか、と、根気強く、確固として説き続けた。
 結婚して二十三年と半年、私は、今まで、自分がどんなに身勝手であったかを思い知った。自分のことを好きなようにしてきたのは勿論の事、夫の為にと行った一見思い遣り深い事さえも、根っこは私の勝手な思いではなかったか。
 夫婦は他人である。離縁という選択肢がある。これまでの持病でも実家の父の事でも厄介と心配をかけてきた私は、夫にいつ愛想をつかされても受け入れる覚悟ばかりを考えてきた。
 しかし夫は、なぜこうも共に生きる道を疑わないのだろう。
 結婚して二十三年と半年、私は今になって、やっと、共に生きる覚悟を胸に灯したのではないか。
 泣きべそをかいて頷き、夫の顔をまじまじと見つめながら、私は、自分が生まれ変わるような感覚の中にいた。

しゃべる 5

 楽器だと思う、声は。
 音楽に縁なく生きてきた人も一度くらい思ったことがあるのではないかな。
「ああ、なにか楽器が弾けたらなぁ」
 ピアノ、ギターにトランペット、ウクレレもいいなぁ、なんて。
 けれど、喋る仕事に携わってみて感じることは、声も楽器だということ。
 誰でも持っている、指紋と同じ、唯一無二の楽器。
 体を共鳴させて出す声は、体格や力の入れ具合で無限のバリエーションを生む。
 日常会話では問題がなくても、仕事として発するとなると、より良いものにしたい。腹式呼吸や口の形の調え方を磨く。出せば出すほど、鍛えれば鍛えるほど、太く豊かに、響きも良くなっていく。
 腹から声を出す、なんてよく聞くけれど、声の使い方、イメージは業種によってちがうみたいだ。演劇、声楽、アナウンス、それぞれに「頭のてっぺんから出す」「全方位360°へ放射するように」「マイクに向けて乗せて」など。
 私の知ってる歌手さんは、家で発声している時、夫に「お前は背中から出てる声がうるさい」と苦情を言われたとか。
 実際にボイストレーニングを受けてみると、空気を吸った時に、背中が広がるのを感じたし、声を鼻に響かせる、おでこに当てる、胸から出す、などトレーニング次第で相当自由にコントロールできるものだと感じる。
 
 ブライダル司会の仕事をしていた時、よく先輩と話したことがある。
 秋のブライダルシーズンになると、土日の二日間に、打合せを5件と披露宴を3件こなしたりする。もう草臥れて、体はへろへろボロボロなのに、そんな時の方が、声はやたら出るよねぇ、って。
 私は体調を崩した数年前にブライダル司会を離れて以来、今は年に二度ほどホールイベントの影アナウンスのみになっているが、十年近くかけて育てた声だけが私の特技みたいに思えて、なんとかキープしておきたくて、夫の出勤後に、2年前に亡くなった舅を口実にしている。
 25分程、口角をしっかりと動かして滑舌を意識し、太い声であげるお経。
 舅は苦笑いをしていることだろう。

しゃべる 4

 『恥、テレを捨てさせる』訓練だったのだ。
 アナウンススクールで教えることは、喋る技術だけではなかったのだ。
 発声・滑舌・アクセント・音読やフリートークの組み立て、等々・・・を教わりながら、授業で身に付けさせるのは、人前で平気で喋れるようになることだった。
 いきなりハイ、と自分へマイクを向けられて、即座に声を出せるか。
 今の私は「イエス」。
 そして内容が何でもよければ、何時間でも延々話していられるだろう。
 子供の頃から親戚や近所の人に会っても、親の後ろに隠れてしまい、挨拶出来ないほど内向的で人見知りだった。今でも本当はそう。治ったわけではない。
 それなのに、音読が好きで、三十過ぎて専門学校へ行ってみれば、喋ることはそもそも他人に向かって何かを伝えるのが前提であった。独りで完結しないことに今更気付いてガクゼンとした。なんて阿呆なワタシ。
 どうしよう・・・しかし、かなりな額の入学金と授業料を夫が惜しみなく払ってくれた後だった。主婦のソロバンも働く。こうなったら出資を取り返すと腹を括った。
 とはいえ、極度の上り症なのに、気心も知れぬ数十人の前に立ち、文章を読んだり、フリートークをしたり。授業で自分の番が来る度、心臓は早鐘を打ち、顔は真っ赤、体中からは冷や汗が噴出した。月三回のレッスンに数年通っても、それは一向に変わらなかった。
 しかし司会の仕事を得るようになり、内面の緊張をそのままに、神経回路を切り、口を動かせるようになった。だって仕事だもの。喋るのはワタシじゃない、人々が注目するのはワタシじゃない、司会者だ。ワタシは役割を演じなければならない。催しがスムーズに運び、参加者が楽しめなければならない。
 そんな自覚と責任が、テレ恥スイッチを葬る、極度の引っ込み思案のこの私からも。
 訓練の賜物だと、つくづく思う。
 誰もが無限の可能性を秘めている、いざとなれば何だって出来る。