しゃべる 4

 『恥、テレを捨てさせる』訓練だったのだ。
 アナウンススクールで教えることは、喋る技術だけではなかったのだ。
 発声・滑舌・アクセント・音読やフリートークの組み立て、等々・・・を教わりながら、授業で身に付けさせるのは、人前で平気で喋れるようになることだった。
 いきなりハイ、と自分へマイクを向けられて、即座に声を出せるか。
 今の私は「イエス」。
 そして内容が何でもよければ、何時間でも延々話していられるだろう。
 子供の頃から親戚や近所の人に会っても、親の後ろに隠れてしまい、挨拶出来ないほど内向的で人見知りだった。今でも本当はそう。治ったわけではない。
 それなのに、音読が好きで、三十過ぎて専門学校へ行ってみれば、喋ることはそもそも他人に向かって何かを伝えるのが前提であった。独りで完結しないことに今更気付いてガクゼンとした。なんて阿呆なワタシ。
 どうしよう・・・しかし、かなりな額の入学金と授業料を夫が惜しみなく払ってくれた後だった。主婦のソロバンも働く。こうなったら出資を取り返すと腹を括った。
 とはいえ、極度の上り症なのに、気心も知れぬ数十人の前に立ち、文章を読んだり、フリートークをしたり。授業で自分の番が来る度、心臓は早鐘を打ち、顔は真っ赤、体中からは冷や汗が噴出した。月三回のレッスンに数年通っても、それは一向に変わらなかった。
 しかし司会の仕事を得るようになり、内面の緊張をそのままに、神経回路を切り、口を動かせるようになった。だって仕事だもの。喋るのはワタシじゃない、人々が注目するのはワタシじゃない、司会者だ。ワタシは役割を演じなければならない。催しがスムーズに運び、参加者が楽しめなければならない。
 そんな自覚と責任が、テレ恥スイッチを葬る、極度の引っ込み思案のこの私からも。
 訓練の賜物だと、つくづく思う。
 誰もが無限の可能性を秘めている、いざとなれば何だって出来る。