私達は心に桜を持っている

今週のお題「お花見」

 おとといブランコを漕ぎながら見た桜があんまり愉快だったから、昨日も陽気の中へ出掛けていった。とりあえず図書館を目指すことにして、ひと駅分歩く。
 橋へ差し掛かると、川沿いに続く桜の下ではレジャーシートの上でお弁当を開くグループが幾組もいた。本格的なお花見。いいなぁ。私もコーヒーでも買ってここで腰を下ろそうかと迷いながら通り過ぎた。

f:id:wabisuketubaki:20180329083414j:plain f:id:wabisuketubaki:20180329083447j:plain f:id:wabisuketubaki:20180329083507j:plain  住宅街を20分ほどの道々でも沢山の桜を眺められた。マンションのエントランスや病院の裏庭、保育園の垣根、街路樹、小学校のグラウンドには樹齢の高そうな枝の張り出し。普段は意識しないけれど、こうして薄桃色の花の時期を迎えれば、桜は至る所に植わっている。家々の間のひっそりとした小さな公園にも1本。
 そうだよな。例えば私がごく小さな公園を設計しろと言われたとする。狭いから植樹は控えめに、大きくなる木を1本だけ植えるとすれば、桜を選ぶんじゃないかな。
 そうなのだ。よちよち歩きの頃から春毎に桜を瞳に映して育つのだもの。

猫は自分を憐れんだりしない

 勝手に憐れんでいるだけだ。当の本人(猫)は飄々としたものだ、きっと。
 昨夜10時過ぎ、庭に面したサッシへ、うちの元野良猫アポロが走り寄り、うなおお~~う、と吼えた。アポロは物凄く警戒心が強くて、庭に来訪者…猫、狸、アライグマ等の気配を察すると窓際で唸り声を上げる。だからゆうべも誰(何)が来たのかとカーテンを捲ると、2mほどのところによっちゃんが佇んでいた。

 f:id:wabisuketubaki:20180328091806j:plain f:id:wabisuketubaki:20180328091923j:plain よっちゃんは、ここいらの野良の目下ボス猫である。お腹と手足は白、背中が茶トラの体躯立派なオスで、2、3年前から我が家の庭をよく訪れる。初めて見た時に夫が「よっちゃんって感じだな」と言ったことから我が家ではそう呼んでいる。そして、これは私見であるが、顔が小栗旬に似ている。よっちゃんを見ると小栗旬を思い、TVに小栗旬が映るとよっちゃんが浮かぶ。
  さてそのよっちゃんだ。アポロと違い、何を恐れることもなく暮らしている。ゆうべもふらりと寄っただけだ。この家にアポロが出入りしている事を知っている。今までに餌を与えたことは無い。もし与えて常駐するようになったら、アポロが帰ってこられなくなるからだ。よっちゃんには餌場が他にもある。アポロにはこの家しかない。
  けれど、庭の暗がりでこちらを向いたよっちゃんを見て。暖かくなったとはいえ夜はまだ冷える。夫の足元でヒーターの温風にあたり、餌と水が常時置かれているアポロと大違いだと思ったら、泣きたくなった。いやいや、天衣無縫に生きられるよっちゃんと臆病者のアポロ、どちらが幸せかなんて判断できない。けれど、私は胸が詰まる。

 ああ、アポロが他の猫と仲良くできる子だったらなぁ。f:id:wabisuketubaki:20180328092603j:plain

春の空に吸われし四十九の心

 春はいいね。夏秋冬もそれぞれ好いけど、春は特別だと思う。
 私は出不精で外出しても買い物なり用が済めばさっさと帰るのだけれど、今日はぶらぶら歩きたかった。駅前の郵便局で荷物を送った後、商店街とは反対のほう、静かな住宅街へゆっくりと入っていった。
 初めて歩く界隈。空中には柔らかい眩しさが漲っている。ゆったり広い街路を進んでいくと、この街路が分断する形で、両側へ伸びる公園があった。桜の大木が何本もあって、古い大きな石碑が立っていて、足元を草花が埋め尽くしている。小さなブランコがあった。ずんずんと立ち入り、ブランコに腰掛けた。何年ぶりか。大好きだったのだ、ブランコが。
 子ども用の幅の狭い座面はお尻にゴリゴリ痛い。釣りチェーンを両腕に抱えて掴む。よし。昔取った杵柄と言うほどではないが、足と体を使って、どんどん漕いでみた。子供の頃はよくこうやって高く揺らした。このブランコは最高だ、目の前に大きな満開の桜の木があるのだもの。
 いい年の女がブランコなんて気味悪がられるだろうかと少し考えたが、幸い誰も歩いてこない。もし見られても、この桜とこの陽気だもの、大目に見て貰えるような気がした。
 ひとしきり漕いで気が済んで、ああそうだった、止まるのに足を地面に擦ってブレーキを掛けると靴が砂埃にまみれてしまう。こういうところは大人になっちゃってて嫌だなぁ。振れが収まるのを待ちながら、思い出していた。
 まだ3、4歳頃から本当にブランコが好きな子で、一度落ちて鼻血と涙を流しながら公園から家まで帰り、泣き止むとまた公園でブランコに乗ったほどだ。
 その落ちた一度は、これはおぼろな記憶だが、私は手を放したのだ。風の中を前へ後ろへ、低く高く揺らしていて、ふわりとあんまり気持ち良くて、そのまま空気の中へ飛び込みたくなって、手を放してしまったのだ。
 揺れが止まった後も腰かけたまま、青空をバックに枝を広げる桜を眺め、途中で少しだけ文庫本を開き、小一時間程そうしていた。
 ブランコから立ち上がる時、こんなことを考えたのは初めてだが、なぜだか今日の桜は、若くして亡くなった母の分のお花見だったように思えた。
 冬の寒さが穏やかになってくると物凄く待ち遠しいのに、開いた途端、あと一週間か十日かと気が気でなくなる。何と狂おしい花だろうか。

私のお父さん (2

 大学生の時かな、私は父に言った。
「うちは大学の教授位のインテリの家だと思っていたけど」
「ああ、そうだよ」
「でも、お父さんもお母さんも高卒だし、お父さんは普通のサラリーマンで仕事もそんな学校の成績が要るようなものじゃないし、職場を転々としてるし」
 父は言葉を詰まらせた。
 私は何も嫌味で言ったのではない。素直な感想だった。はたと気付いて驚いたのだ。
 大学生になるまで気付かないほど、父は勉強にうるさかった。
 スパルタ教育なんてもう死語だな。母が亡くなったのが小学校へ入学する3か月前だったが、その頃から、幼稚園から帰ると、机に向い、絵本の音読・漢字の書き取り・算数の計算をしなければならなかった。私の傍らに父は竹の物差しを持って立ち、私がモタつくと叱責し、それでも駄目ならピシャリとやる。その日の課題をすんなり出来れば1時間ほどで終わるが、一度どうしても私が2ケタの引き算が出来なくて、ようやく解けた時には日が暮れかけていた。もう遊びに行くことも出来ないと突っ伏して泣いた机は特注品だった。
 大人になるまで使えるようにと、父と生前の母が決めていた、木製の極めてシンプルな机。同級生達のキャラクター付きで書棚や抽斗のついた学習机が羨ましかった。
 父も母も大学にこそ行っていないが成績は良かったらしい。
「父さんが子供の頃はなぁ…」
 昭和7年生まれの父の小学校時代の話。なんでも父は勉強が出来過ぎて公立の小学校を追い出されたという。ほんとかよ(笑)な父の話を以下そのままに。文責ご容赦を。
 戦前で、体罰当たり前の時代。教室で2人ずつ机をくっつけて並べ、真ん中に金槌がおいてある。先生が問題を出す。早く解けたほうが手を上げる。正解すると金槌で隣の子の頭を叩く。父の隣は殴られてばかりで大怪我をする。とうとう担任が、師範学校(今の教育大学)付属小学校へ転校した。
 するとそこへ通う同級生たちは医者や弁護士やお金持ちの家の子。学校帰りに遊びに行くと、ばあやが玄関で「ぼっちゃんお帰り」と迎え、三時のお八つにショートケーキが出る。物のない時代である。比べて自分を家で待っているのはばあやならぬ本物の祖母で、お八つはふかし芋。
 父は、生後間もなくに母親が亡くなり、母方の祖父母に引き取られた。父親はよその町へ行って再婚したと、この事を話す父は腹立たしげだった。
「うちみたいに貧乏な家の子なんかおらんかったから嫌やった」
 大学へ行かなかったのは父親に金銭的な世話になりたくなかったからだと言う。
 父親に見捨てられたと思っていたせいか、父自身が同様に妻に死なれ、幼子を残され、本当は誰か助けてくれと思いながら、独り意地になる事を余儀なくされたのだ。
 その意地が「人に負けるな」という口癖となって私や弟に注がれた。
 テストは90点以上でないと叱られた。99点を取った時に私が得意げに差し出したところ、父はその答案をビリビリに破いた。
「僅かあと1点が取れん事を恥と思え、こんなんなら0点のほうがマシや!!」
 始終この調子。それでもお父さん子の私は褒められたくてなんとか食らいついた。
 2つ下の弟が幼稚園へ上がる頃に父は仕事復帰し、付きっきりで勉強をさせることは無くなったが、成績のことではずっと叱られていた。
 それが、私が希望通りの高校へ合格した時に、初めて「お前は親孝行したね」と褒めてくれ、以来一切勉強のことを言わなくなった。それが父のどういうケジメだったのかは分からない。

私のお父さん (1

 白黒はっきりつけたいタチだった。真実にしか価値はないと考えるタイプだった。けれど、美しいグレーがあることや、何が本当かなんてどうでもいい場合があることを、肯定し始めた。
 これが年の功なら老いもいいものだ。心がくったりと柔らかく楽ちんだもの。
 父は、どんなひとだったのかと、亡くなってから半年、ますます分からなくなっていくのだ。だからといってそれは不快ではなく、頭の横っちょに常にぼんやりと漂わせている父を、何かのついでに眺めてみる。
 自らの生い立ちを偽り通していた父。ならば、その人生も偽りかと思いかけると、幼い私に接してくれた父の膨大な記憶が、温度を持って立ち上がってくる。誰にも否定できない確かなものだ。
 少しずつでも整理しておきたいと思う、私の知っている、父というひとを。

 厳しくて、神経質で、気難しい性格。なのに妙に茶目っ気と言うかイタズラ好きなところがあって、子どもをからかうのが好きだった。手先が器用で何でも出来たから、妻に先立たれても家事に困ることは無かった。
 料理は母より上手いと言っていた。夜の10時に小腹がすいたと言って、突然米を研いで鍋で炊き、寿司酢を調合し、自分が作った沢庵を刻み、海苔をあぶり、巻き簾を取り出し、新香巻きをこしらえてしまう。
 裁縫だって、ズボンの丈上げから、私のスカートのウエストサイズの直しまで、ミシンをだだっとと走らせる。
 何でもできるけれど、どうにも面倒くさいといつも言っていた。
 機械いじりも得意。息子に野球を、私に卓球を教えられる程度にスポーツも出来た。
 …出て来るわ出て来るわ、キリがないぞ、今日はここまで。