感動する準備は出来ている

 美しいものは、客観的な存在ではなく、主観的に捉えるものだと書いてあった。そこに在るのじゃなく、人の心が見出して、初めて”そこに在る”と。
 瞼を閉じたままでは無いも同じ。蝶を見ても、ある人には毛虫が飛んでいるにすぎない。これ、私のことだ。蝶は苦手で、美しいと思えない。鱗粉を振り撒いていると想像してしまって、蛾も蝶も同じなのだ。
 あるものを美しいと感じられるためには、自分の中にそれを美と認識できる心があってのこと。
 なるほど。
 そこへいくと、桜の花は凄いじゃないか。誰が見ても美しく、胸を打つ。こんなにも待ち焦がれられる存在があるだろうか。私たちの心に桜の美を受け止めるレセプターはいつ頃どうやって用意されるのだろう。
 ニュースによれば関東はもう開花しているが関西はまだだ。
 先週の暖かかった数日で一気に膨らんだ蕾は、この数日の冷たい雨に待ったをかけられた。それでも昨日、買い物帰りに見上げた枝には勇み足の数輪が。
 この雨が上がれば、ああ。

私がいなくなっても

 外から地球を見た宇宙飛行士さん達は人生観が一変すると聞いた事がある。そこまでは及ばないが、5年前に人生初の入院手術をしてから、自分の何かが変わり始めたと感じている。
 見るものが新鮮で、気持ちが外へ誘い出されていくような伸び伸びとした感覚。元々あまりなかった物欲が更に減った。家をひと月離れたからだろうか、生活に必要な物なんて僅かだと思うようになった。あとは要らない。身軽に生きたい。
 すると、箪笥に詰まった衣類が気になりだした。私はいつも同じ物ばかり着る。あとの物は袖を通すことなく眠ったままだ。Tシャツ1枚とっても何年ももつ。とすると、今ある物だけで80歳までいける、40代の色柄だという問題はおいといて。随分処分し、目下、新たな購入ストップ中。
 人生の転機なのか、片付け物が続く。
 昨秋に父が亡くなってから、先日から実家の遺品を整理している。母はとっくに亡くなったのに、和装用のビーズバッグが残っていたり、私の高校時代スキー合宿のゴーグルが出てきたり、中学時代のスケッチブックがあったり。
 こうして古き物たちと向き合うと価値観がこんがらかってくる。これは以前、夫がバイクで転倒した時にも考えたことがあった。夫の怪我は日が経てば治るのに、夫の大事なバイクの傷は消えることがなく、夫はいつまでも悲しんでいる。
 大好きな向田邦子さんは亡くなっても、彼女の作品は永遠に存在を留める。
 物と生きている人と、どちらが尊いだろうかと。いや、違うな、物が尊くなるのは、人の想いが籠るからだ。やっぱり、人の魂の価値、勝ち。

小学2年女子的、アポロ(雌、推定7歳

 アポロのしっとりとした情緒には日々感心してしまう。
 例えば、私が台所の流しへ立つと背後に気配がする。台所入ってすぐのところにアポロは座っている。あるいは食器棚の角に体を擦りながらくねくねしている。気が付いて声をかけてくれるのを待っている。私が振り返り、目を合わせ、「お魚(ウェットのフードを一口)欲しいの?」と聞くと、ようやくにゃ~んと返事する。
 野良だったアポロはどうも引っ込み思案で遠慮がちなところがある。もじもじする姿を見ていると、私は自分の子供の頃を思い出す。私もそういう子だった。頂戴が言えない。アポロには小学2年生くらいの女の子を感じる。
 6年前に庭で見かけるようになったアポロは地域猫だ。ボランティアの保護の下、避妊手術を受け、その印として片耳にV字の切込みが入る。この野良は繁殖しない一代限りの命だから、給餌や存在を大目に見てと。この際の恐怖で心の傷も負ったのだろう、物凄く警戒心が強い。猫好きの私が餌皿を庭先へ出しても、初めは口を付けなかった。そこから、家の中で餌を食べるようになり、数時間休んでいくようになり、撫でられるようになり、家の中でいることの方が多くなり、夫のあぐらに乗るようになり、夜私たちの布団の上で眠るようになり……ゆっくりと家族になってきたのだった。それでも、未だに宅配業者が来たりすると、身構え、庭から外へ脱出する。
 最近、驚くべき行動をとった。台所へやってきたアポロに、私が気が付かない(気付かないフリも含む)でいると、そのまま居間へ戻り、座っている夫の膝をそっと前足でとんと叩くか、遠慮がちににゃ~と鳴くのだ。始め、夫は分らなかったが、私はピンときて笑ってしまった。
 これは、夫にとりなしを頼んでいるのだ。お魚をくれるように、お父さんからお母さんに言ってよう、と。
 これまでは、夫の膝で甘えるアポロに、夫が「アポロ、行ってみ、お母さんにお魚頂戴ってちゃんと言うんだよ」と促されて、台所の私のもとへやってきて、意を決したようににゃ~んと鳴く。または、ご褒美的タイミングで夫が「アポロにお魚あげて」「アポロ、お母さんからお魚貰っといで」とか「アポロ、お魚頂戴って行ってみ」、それを受けて私が「おいでアポロ、お魚食べよか、お父さんが食べていいよって」と台所へ、しっぽをぴんと立てたアポロを伴う。
 それが、だ。オカンときたら鈍くて察してくれない、オカンが駄目ならお父さんに頼むのだ。頭良すぎないか、アポロ。進化はまだまだ続く。

春ってそういうことか

 これだけ春めいてくればと、頭の中で勝手に桜の蕾を膨らませている。
 うちの近所に、ただの坂道なんだけど、桜の名所がある。車が交互通行できないほど狭い、長くて急な坂の、両側から樹齢60余年の桜並木が枝を差し掛け、トンネルを作る。普段は閑散とした住宅街の真ん中に、年に2週間だけ人と車の渋滞が出現する。誰もがゆっくりとしか進まないからだ。
 下り一方通行のこの坂は市バスの路線になっていて、大型のバスが枝を避けながら下りる様も中々のものだ。車窓のすぐ傍に花たわわな枝がある。そして開花の時期だけ、坂を走る間だけ車内に流れる「さくらさくら」の琴の音。
 「さくらさくら」は私が今も唯一弾ける曲だ。お琴の譜面は漢数字で書いてある。その番号を覚えているのだ。張られた弦の番号で「七七八、七七八、七八九八七…」。
 亡き母が嗜んだ琴を、父は私にも小学2年の時に習わせた。
 電車で15分、駅から歩いて10分、稽古が60分。週1回ではあるがその日は友達と遊べない。琴は大きく、弦は硬く、指にはめる爪は窮屈。ろくに練習しないから上達もせず苦痛なばかり。見かねた父が辞めさせた時にはほっとしたものだ。
 これは後になって父に聞いた事で、私は覚えていないのだが、母が亡くなった直後に小学校へ入学した私は、学習机の上に飾った母のスナップをぼーっと眺めていることがよくあった。父にはそれが辛くて、私からぼんやりする時間を取り上げたくて、わざと時間のかかる遠くへ通わせたという。
 お琴。今なら喜んで通うのに。お琴が弾けるなんて素敵だ。勿体なかったかな。
 そういえば夫も似たようなことを言っていた。中学時代、吹奏楽部に入ったものの楽譜が読めなくて大苦労で、ピアノ位習わせといてくれたらよかったのにと母親にこぼしたところ、「何言ってんの、あんたが幼稚園の時に私が習わせようとしたら、ピアノと習字だけは嫌だって聞かなかったんじゃないのっ」。
 形の上では親の期待を裏切った事は多々あれど、注がれた愛情や思いが消えることはない。私は蓄えている筈だ。まだ持ったままだ。慌てる必要はないけれど、時間は確実に少なくなっていく。お父さんお母さん、さあて何に使おうか。

残したんだっけ、

 そういえば、ふっふっふ、私に似合わぬ忖度。
 一昨日書いた通り、弟の居間で古いあれこれを整理した時、亡くなって久しい母の筆跡達は処分することにしたけれど、その中に一枚だけ、父の書があって。
 色紙に私の名前がひと文字大きく書かれている。これは私が生まれて間もなく迎えたお正月の、父の書き初めだ。その時の写真がアルバムに収められている。
 父も母も着物を着て、筆を持った姿を互いに撮り合っている。初めての子の誕生に夫婦は身の引き締まる思いと湧き上がる喜びを味わっていたのではないだろうか。
 2人目の子以降は写真が減るという。弟が誕生した翌年のお正月の写真はない。書き初めも然りか。
「パッと見には下手じゃないと思ったけど、筆の止めや払いなんか滅茶苦茶やな」
 色紙を手にした弟はしばし眺め、言った。うん、確かに。
 しかし。その時、襖をあけ放った隣の和室に真新しい仏壇と遺影を意識してしまった。すぐそこに父がいる。この書を要らないとは口に出来なかった。捨てるにしてもここではちょっと……。
 そんなわけで父の字はもうしばらく閲覧可能である。