ちょっと、凄かった 続き×3

 一昨年の元旦から始めた医薬断ち。半年間はなんともなかった。が、夏頃から指が腫れて痛み出した。部位は小さいが痛みで夜中に目が覚める。グーに握っている指を開こうとして痛いのと動かないのとで一苦労で、掛け布団を掴めなくなった。
 それから手首が痛み、膝が腫れてきた。仕事は週2、3日だけではあるものの、長時間立ちっぱなしだから、終えて帰る頃には足首が腫れあがった。毎度最寄り駅までホウホウノテイ。痛くて辛いから早く帰りたいのに早く歩けないのがもどかしかった。
 秋が過ぎ、冬になって、又お正月がきて…もう腫れも痛みも当たり前のような毎日。徐々に進む症状の中で、それでも私は治ると思っていた。お隣のSさんにお借りした本で紹介されていた海外の例によれば、病気が消える前に一時症状が重くなる事が少なくないのだという。ケミカライゼーション~自壊作用~というもので、消えゆく前の現象、例えば建物の崩れる時の轟音であり、建物が高ければ高いほど大きくだろう。なるほど、表象に惑わされるな私。
 こうして気持ちは大丈夫だったが、生活に出始めた支障は誤魔化せないものになってきた。燃えるゴミを出すのに、袋の口が結べなくてモタモタ。ゴミが重い。指が、手首が、膝が、足首が痛い。ゴミ集積所へ向かう姿に、ご近所の方々から「お持ちしましょうか」と声がかかるようになった。お隣のSさんにもナイショで始めた医薬断ちも知れるところとなった。
 そう、Sさんに迷惑がかからないようナイショにしていた。夫は勿論早い段階で私に問うた。なぜ薬を飲まないのか、と。私は答えた。
 ある哲学に触れて、人の心の力を知った。すべてを創り得る、無限の素晴らしい力を。心を強く正しくし、体の細胞を本来のDNAに書き込まれた初期設定通りの働きに戻せれば病は消える筈だ。体のもつ生命力を信じたい。
 それに、それだけじゃなくて、と思わず涙声になったが続けた。
 あのね、止めてみて分かったんだけど、お薬をね、ステロイドだけど、飲んでるとね、朝起きた時にお腹が空いてないの、なんとなく胃もたれみたいな感じでそれが当たり前になってたの。それが飲むの止めて1週間ぐらいたった朝、久しぶりにお腹が空いてて、気分が爽快だったの。本来こうだったんだなって思って、一生薬漬けかって考えたら、やっぱり嫌だって、飲みたくないって…。
 以来、夫は「飲みたくないなら無理に飲まなくてもいい」と見守ってくれた。
 確かに毎日関節は痛んだが、気分は良かったのだ。やがて気分どころではなくなっていったが。……

ちょっと、凄かった 続きの続き

 今朝6時半、出勤支度を調えて玄関を出た夫が「寒い」と言った。9月に入って涼風が立つようになっていたけれど、もう秋の入り口をくぐったのかな。
 あの頃、夫は私が寝たきりになることを覚悟していたという。そして私は、もっと早くに夫に病院に引きずって行かれると思っていた。けれど夫は、最後まで付き合ってくれた、勝手に通院とお薬を止めてしまった私に。
 私は十年ほど前から慢性の関節炎で病院に通っていた。完治は難しく、投薬で炎症を抑えていくのだが、炎症が続けば関節の破壊を招く。ある程度変形が進めば人工関節に置換手術をする。私も数年前から片方の足の親指はチタン製である。そう、これも理由の一つかもしれないな。ちゃんと病院にかかっていたのに悪化を食い止められなかったのだもの。
 足の手術の直前に、私はある思想に触れた。ご近所のSさんから伺ったのだ。母親と同い年のノーブルな女性で、ふとしたことからお茶に呼んで頂いて。
 ……この世界、宇宙、五感で感じているものはすべて人々の心が創り出したものだということ。思念、思考、口に出す言葉、表情や手ぶりがそのまま表れる。人の心は無限の可能性を持つ、と。
 しかし私は病気を望んだ筈はないのですが、と少し皮肉な笑いを浮かべてしまった。そこでSさんは言った。
 ……心の、私たちが意識できている部分は僅か5パーセントで、あとの95%の潜在意識が人生を動かしている。例えば病気というものも、何か後ろめたいことが有って自分を罰したいとか、仕事が嫌で休みたい為だとか、もっとシンプルに病気になりたくないと強く恐れるあまりだとか、各々の人それぞれの理由で現れる現象なのだ。
 それはフロイト精神分析を私に思い出させ、興味深く、以来Sさんと時々そういう思想のお話をするようになった。そして次第にある決意が固まっていった。
 ……宇宙の理念に従い、精緻に形作られる世界。人体ならば設計図であるDNAのとおりに健康である筈の体を蝕むものが心なら、戻すのも心だろう。現に、ただのビタミン剤を新しい特効薬だと聞かされて服用し、病気の治った例も少なくないと聞く。薬は、症状を和らげてくれるが病原を退治するものではない。ならば、心を強く持ち、自分の生命力に委ね、本来の細胞たちの正しい姿を現しだせる筈だ!
 こんなふうに考え始めると、もうお薬を飲むことは自分を欺いているに過ぎないように思われて、とうとう、一昨年のお正月から医薬を断つことにした。
 そしてその18か月後の私は、昨日書いたような有り様で……(笑

ちょっと、凄かった の続き

 どれくらい凄い状態だったかを人に話すのに、一番驚かれるのがこれだ。布団に寝ている時、顔が痒くなっても我慢した。布団から手を出すのが激痛だったし、出したところで手首は動かないし、指先に力が入らない。痒くても死なない、そう思ってやり過ごした。
 つい一年ちょっと前の事だ。
 茶の間で一度座り込むと、立つのに一苦労。膝がパンパンに腫れて痛んで踏ん張れない。まず卓袱台に肘をついて上体の重みを逃がしておいて、片足ずつ膝を立て、伸ばす。立ち上がってもゆっくりしか進めないから、トイレに間に合わないかと冷や冷やした。夫が椅子を幾つか置いてくれるようになった。
 茶の間と続きの和室へは段差が35センチある。これが登れなくて、用があるのに取りに行けない。座布団2枚を半分に折って即席の踏み台を作った。
 手が肩より高く上がらず、手先に力がなく、洗濯物を干すのが辛かった。
 マヨネーズをチューブから押し出せない。食器が重い。
 着替えのボタン留め外しに時間がかかった。パンツの上げ下ろしは手首と指先が激痛。Tシャツの脱ぎ着に、肩が上がらず腕が動かず悶絶。だからかぶるタイプの服でなく、前開きのものを探すようになっていた。ブラの肩ひもを引き上げるのも大変。だからトートバッグを肩にかけるのも辛かった。持ち手がずり落ちても上げられない。中のものを取り出すのに手首を曲げられないからモタモタ。斜め掛けポシェットを使うと、肩が重くて痛くて我慢できなくなった。出掛ける前に、中身をできるだけ軽くしていった。
 買い物は一番困った。まずバスのステップがきつい。混んでで座れないと苦痛。さあスーパーで、左ひじに籠を持ち、右手で…カボチャ1/4がつかめない。キャベツ1玉が安くても重すぎて持って帰れないから1/4のにする。ああ大根が安いと思っても、今日は牛乳を買うつもりだから諦める。そういえば小麦粉も砂糖もお醤油も残り少ないけど、どうしよう、今日はせめてどれか一つだけでも…。夫の好きなペットボトルのジュースが安くなってて買ってしまうと、帰りに腕肩が痛くて歩けない。こんなにセーブしてるのに、お豆腐やらお肉やらが合わさって結局結構な重みだ。レジで財布から小銭が上手く取り出せない。返されたお釣りを仕舞えない。エコバッグに品物を入れるのにモタモタ。バス停まで普通なら2分かからない道のりに7,8分かかるから気ぜわしい。帰ってきて、カバンが重くて手が動かず、鍵がなかなか出せなくて、玄関前でもどかしい。
 靴が、脱げない。足が腫れてるから。スニーカーが無理になって、クロックスのサンダルを買って貰ったが、それもとうとう履けなくなって、最後は夫のサンダルをつっかけてたなぁ。
 何もかもが苦痛。だって体が痛いし、動かないし、だったから。干からびた、分厚いジャーキーみたいだった私。まだ仕事をしていたんだけれど、去年のお正月を過ぎてから体の色んな所が腫れていって、春には階段の上り下りが相当辛くなっていて、利用する駅のエレベーター、エスカレーターの有無を覚えた。横断歩道を信号が青のうちに渡りきれるかいつもドキドキした。
 一番仲が悪かったのは掃除機だ。重くて、手首と腰にキツくて、私ときたら、お掃除を助けて貰っていながら、いつも当たり散らしていた。
 始終顔をしかめていた私と共に暮らし、見ていた夫は、どれだけ辛かったか。それは苦痛の最中にも勿論考えた。夫は、共に耐えてくれた。黙って手を差し伸べ、寄り添うことは、当事者の私以上のこともあったろう。私はそれでも夫を巻き添えにしたのだ。
 そもそもなぜこんなことになったかというと、…

ちょっと、凄かった

 水着姿を確かめる。さいわい洗面台の鏡では腰から下は見えない。

 服の下に水着を着ていくなんて、小学生みたい。

 同じことを、そういえば一年前にも思ったっけ。ちょうど去年の今頃だった筈。それまでの一年と、それからの一年は、人生のエアーポケットみたいな時間だろう。

 去年の夏はまさしく骨と皮という痩せようで、それでも動けるようになった私は、何かしたくて、体に負担の少ない水中ウォーキングを思いついた。夫も賛成してくれて、結婚直後から20年ほど仕舞い込んでいた水着を引っ張り出して、温水プール施設へ出掛けたのだった。尤も数回通って辞めてしまったが。

 さて人の体はよくしたもので、調子が戻ると体重も戻ってしまった。この春の手術入院後にしっかりついてしまった贅肉を落とすべく、今一度のプール通いを決意し、一年ぶりに歩く道。ごく普通に歩けることの、感動が近頃は随分薄れていきているが、やっぱり感慨深いものがある。ちょっと思い出して覚書に。

 足首が膝位、膝が太ももくらいに腫れていた。関節の炎症は手首、肩にもあった。羽毛布団が重くて寝返りが打てない。布団の重さというよりは布団カバーとパジャマ、布同士の摩擦に勝てなくて、布団の中で動けないのだ。それでも同じ姿勢でいると膝が痛み出すから、20~30分おきに膝を立てたり寝かせたりを、激痛に耐えながらゆ~っくり、脂汗をかきながら繰り返す。夏であったし、炎症で熱いのに、体を冷やすと症状が更に酷いから、真冬のパジャマに布団をかぶり、汗だく。手指と手首と肩が痛くて、自分で布団が捲れない。あまりに暑くて片足を横から出すと、汗が冷えてきても自分で布団の中へ引っ込めることができない。

 朝の目覚ましが鳴って起きるのに、腹筋は使えた。上体を起こす。しかし、肩から首筋にかけては凝り固まって動かない。立ち上がるのが激痛だからぐずぐずしてしまう。そのまま勇気が出ないまま5分が過ぎて、ようやく自分に言いきかせるのだ、いつまでもここに腰掛けているわけにいかないでしょ、と。で、えええいっっと台所に立つ。

 夫の朝ごはんと週一のお弁当はなんとか拵えた、人参の千切りが出来ないような状態で、フライパンを持ち上げることは出来なくて、だったが。

 

 …ちょっとこの覚書、時間かかるぞ、続きは明日にしよ…

父、母、泣きたくなる景色

 畑があって、田んぼが広がっていて、それを抱くようになだらかな山がぐるりを囲む。山のふもとに離れて建つ民家は昔ながらの日本家屋。農道を軽トラックが走っていく。

 父のいる施設は、こんな典型的な里山にある。2時間に1本来るか来ないかのローカルバスを降りると、田んぼでは今、こうべを垂れる寸前の稲が青々と揺れていた。

 わたっていく風。泳ぐトンボはナツアカネなのかアキアカネなのかしら。虫に詳しい夫なら分かるのだろうけれど。空は青く澄んでいる。

 ああ、と涙は、こぼれるまではいかないが、眼球に漲ってくる。

 こういう長閑な田舎の光景に、私はいつも心を開かれ、打ちのめされる。大好きで、懐かしくて、悲しくなる。そう悲しい、それは母の田舎の光景を思い出すからだ、きっと。小学一年生の夏休み、預けられて過ごしたあのひと月を。

 父は私を車で送り届けると、帰ってしまった。おばあちゃん伯父さん伯母さん従兄弟のお兄ちゃん達と暮らした農家の夏。畑でトマトやナス、トウモロコシをもいだり、農具小屋で伯父さんの作業を見ていたり、おにいちゃんにトンボを捕ってもらったり、おばあちゃんと手を繋いで、お友達を訪ねたり。それは豊かな豊かな時間だが、私は不安でたまらない。だって家へ電話をかけても、父は出ない。母もいなくなってしまっていた。夏休みが終わる頃に迎えに来ると父は言ったが、ちゃんと来てくれるだろうかと気が気でなかったっけ。