誰の想いも酌めず。駄目私

「一緒じゃん」 お風呂上りの洗面所で自嘲の言葉が口をついた。
 それが茶の間の夫に聞こえて、「何のこと?」。
「伯母さんへの怒りがまた沸々と、ね…」
 それは先週の、父の一周忌法要でのこと。

 昨年亡くなった父には姉がいる。幾つかの持病を抱えながらも気丈で御年89歳。電話の声も、手紙の文字も、まあ御達者な様子が窺える。
 隣の県にお住まいだが、父とは時々の電話のみで行き来のないまま、晩年に至っては音信も途絶えていた。父が亡くなった朝、葬儀にお越し頂くことは無理だろうと私が電話でお知らせしたところ、案の定伯母は前日まで入院していたとのことだった。

 伯母にしてみれば後から後から後悔が沸いてくる。生前になぜ会っておかなかったか、無理をしてでも葬儀に行けなかったか、と。
 だから一周忌には参りたいと伯母から手紙が届いたのだが、急なことで伯母を迎えに行く手だてが調わない。伯母は、現在体調も落ち着いていて、JRで一本だから一人で出向くと言う。私も夫も弟夫婦も気が気でなかった。

 そして当日朝、駅の改札口に現れた伯母は、娘(私の従姉)に伴われていた。
 そうだよな。今年89歳の母親を不案内な他府県へ、乗り換えなしとはいえ早朝に一人で1時間も電車に乗せられないよな。
 従姉は伯母を私達に託し、そのまま改札の中へ引き返して行った。法事後には弟夫婦と車で伯母を自宅まで送った。

 一人で大丈夫、その言葉を真に受けた私が馬鹿だった。伯母も考えるべきではなかったか。従姉の心配はもっともだ。自分の思いだけを通そうとするのは傍迷惑だろう。いやそれでも弟の法事に行きたいと思った伯母の希望を叶えて…しかしそれには準備がいる。伯母は周りへの影響を分かった上で思いを通した。それはやはり我が儘だろう。いやいや言い募っても私が考え足らずだっただけのことだ。
 自分への情けなさが伯母への恨み言となり、頭の中で”もう嫌、金輪際伯母とは付き合わないぞ”と思った。その頑なな言葉に自分でハッとして「一緒じゃん」。
 父にそっくり、こういう思考、物言い。父の、私が大嫌いだったところ。

 ひとしきり話を聞いた夫は「今後のこともあるから、お従姉さんには言い訳もかねて連絡しておいたら」と勧めてくれたが、私は「もういいの」と言い張った。
 すると夫が「ふうん。とにかく俺は自分の考えは言ったよ」。
「うん、ありがと」とは返事したが、夫の思いを無にしたのが気まずくて、私はふて寝みたいに布団へ倒れ込んで先に就寝。
 今朝は普通に夫を見送って、ひとりになって、少しずつ少しずつ落ち込んできた。どんよりとしているとお昼前に電話が鳴った。夫からだ。
「ご飯食べたか」「まだ。あなたは?」「今」「…なんで電話くれたの?」「なんとなく掛けようと思っただけ」「ありがとう」

 なんやかやと立てなくていいさざ波を大きく捉えて鬱々して、助けられているのだなぁ。夫は私をどう思っているのだろう。

穏やかな日々を早く取り戻せますように

 昨日9/6、いつものように出勤する夫を見送って6時半にTVをつけて、私は初めて知る、震度6強の地震が起こった事を。
 どこ-----北海道? いつ-----午前3時? 
 私は阪神淡路大震災に遭っているから揺れの想像がつく。いくら離れた地とはいえ、この激震を3時間半も知らずにいた。TVやPCを点けなければ、この激震は私にとってないも同然だなんて。

 9/4の台風21号は関西のまさに私の住む町に上陸した。確かに風は凄まじかったが、3時間ほどで過ぎ去り、近所の街路樹が折れたくらいで済んだ。と思っていたら、台風進路の東側だった市区町村は未だ停電が続き、海沿いの高潮被害は深刻、東日本では長く続いた風雨の影響が至る所で出ている。

 以前から気になっていた。被災地と被害のない町とのあまりのギャップ…。

 戦争でも起こったかのように市街地が廃墟と化し、水道電気ガスが使えず、電車が止まった阪神淡路大震災の当時、私は結婚前で、隣の県で一人暮らしをして働いていた。週末に地元に帰って地震に遭い、給水車の列に並んで数日を過ごし、ようやく一部開通した電車にのって勤め先へ戻ったのだった。

 その60分間の車窓に広がる瓦礫の原はしかし間もなく何の変哲もない住宅街の風景に変わり、降り立った駅は煌々と明るく、これまで通りに行き交う人で溢れていた。
「こっちも揺れたよ、冷蔵庫が動いたし、食器棚が倒れたし」と職場の人は言ったけれど、私の部屋も通勤ルートも事務所も、まるで何事もなかったよう。ではあの、アスファルトが割れて隆起した町はなんだったのか。県境で別世界に区切られ、私が数日間体感した現実はニュースの中にしかなかった。

 今日の傍観者は明日の被災者、逆も然り。しかし心まで隔てられないよう、どんな時も願い続けたい、自分がTV画面のどちらにいようとも。

おかあさんはわたしのことがすき?

 「むずかしい子やねぇ」とは我が家の雌猫、アポロへ向けられる言葉だ。

 野良出身で、警戒心が強く、遠慮があって、おやつをちょうだいが言えない、そのくせ甘えん坊でもじもじくねくねにゃぁ~ん、構って貰えないと外へ出てしまう。

 アポロを見ていると、小学生の頃の自分みたいだ。むずかしい子だとよく言われた。

 夫とTVを見ていたらアイスケーキが出て来て、私は苦笑いを浮かべて話し出した。
 あれは5歳の夏、弟の誕生日に母が発泡スチロールの箱を提げて帰ってきた。それを流しに置いて蓋を開けると、中からほわ~っとドライアイスの煙が流れ出し、それが落ち着くと、デコレーションケーキが見えた。これは何だと問うと、アイスクリームで出来たケーキだと母が答えた。途端に私は泣き叫んだ、地団太を踏んで。
「ずるいようっ、私の誕生日にはこんなの買ってくれなかったのにぃ~~~」

 そこで夫が遮った。
「ちょっと待って、そのケーキ、切り分けて一緒に食べられるんだろ?」
「そうだけど、そういうことじゃないの。子供の頃、私はアイスクリームがこの世で一番好きな食べ物だったの。その私の誕生日には、クリスマスが近いからって兼用のバタークリームのケーキしか買ってくれたことがないのに、弟の為のケーキがアイスクリームなんだよ、私、その時までアイスクリームのケーキがあるなんて知らなかったんだから」
「う~ん、むずかしいなぁ」
と、今度は夫が苦笑い。

 ただ僻みっぽい子だったということなのだけれど。2歳年下の弟が生まれると、周りの目も手もどうしても弟に注がれていく。おかあさんはわたしよりおとうとのほうがだいじなのかな。他の人はともかく母にだけは。

 アポロが時に私の目を強い眼差しで見つめることがあって、ハッとする。そんな時は、オカンはアポロが可愛いですよ大事ですよと見つめ返す。

泣くのを、卒業

 ひとつずつ、ひとつずつ。

 5月に亡くなった義父の百か日がちょうどお盆に重なるので、住職の奨めで後へずらすことになっていた。日時についてはこちらからご住職へ改めて電話で相談するつもりを、忘れていて、お盆明けに慌てて連絡。なんとか8月中に済ませることが出来た。

 事前には仏具を整えたり、お布施やお供えを用意したり。だけなのだが、お布施の額には頭を悩ませた。どのくらいしたらよいかが分からない。身近に教示頂けるような親戚知人がおらず、私がネットで検索するものの、ケースバイケース。ポイントは普段から住職にお参り頂く頻度と、その法事にあげて頂くお経の長さ、ということは分るが百か日ってどうなのよ、が解決しない。

 ネットでは相場は1~3万円。これにお車代・お膳料が要る、要らない。う~む。

 義父の葬儀でお世話になった葬儀社の方によれば、百か日はそれほど長いお経ではなく、1万円で十分と仰る。プロがそう仰るならと、ひとまず心を決めた。

 しかし当日、迷い復活。お越し頂いた住職の背中を、夫と並んで見つめ、読経が始まった時、私は考えた。お経が15分までなら1万円、それより長ければ2万円、と。そして時計の針をちらちら窺う。もう煩悩の化身でしかない私(笑。

 お経が終わった瞬間、お茶の用意に台所へ立ち、お布施の袋に万札を2枚包んだ。読経時間は17分。加えて今日は住職に過去帳の記入をお願いするのでそのお礼と思えば妥当だろう、と。

 ところで、百か日法要は卒哭忌(そっこくき)とも呼ばれ、この法要をもって、残された遺族は「哭(な)くことから卒(しゅっ)する(=終わる)」、つまり、悲しみに泣きくれることをやめる区切りなのだそう。

 住職をお見送りしてホッとしたのも束の間、来週は昨秋亡くなった私の父の一周忌法要、年内に義父の納骨が控えている。

 法要毎に亡き人は遠ざかり、私達はゆっくりゆっくりさよならをする。

”ワンちゃんネコちゃん”に異議を唱える

 これは夫の、49歳にして抱いたきわめて素朴な疑問である。

 ペット関連のポスターを見て。

「なあ、”ワンちゃんネコちゃん”っておかしくないか」

 ワンちゃんニャンちゃんか、或いは、イヌちゃんネコちゃんだろう、と。

 もっともな疑問である。…解決しないけど。