月、満ちて

 午前6時過ぎ、出勤支度を整えた夫が「今朝は寒いなあ」と身をすくめた。まだ暗さの残る空には雲一つない。
放射冷却が起こったんだね、よく晴れてる」
 地表の熱が上空へどんどんと拡散していったのだ。宇宙なのだなぁと、つくづく見上げる。青からピンクへとグラデーションを創る東の空は本当に綺麗だ。
 先週から上着は厚いものにしていたが、「ズボンも冬物にしなくちゃ」と言って夫は駅へ向かった。
 見送って振り返ると、西の空の低い所にぽっかり丸い月があった。そういえば昨夜は満月になると夫が言っていたっけ。あっけらかんとした存在感が書き割りみたいに不自然だけど、これは確かな真実で、圧倒されてしまった。もうじき山に沈む。なんとなくそわそわとなり、スマホの写真アプリを起こして月に向けた。ところが画面の中の月は画鋲より小さい。あまりに肉眼で見てる月と違うからびっくりして見比べてしまう。どうする?撮る?…迷った挙句に、出来るだけズームしてシャッターを押した。だってこの月は、父の門出を飾ってくれた満月だもの。
 昨日、弟の自宅で父の四十九日法要が行われた。これを境に父は彼岸の住人となるのだと和尚様から教わった。黒々と光る真新しいお位牌が、遺影の照れ笑いに似合っていた。おめでとう、お父さん。ようやく、今ここで言わせて、ありがとう。

あの頃眠れなかった父は

 明日は父の四十九日法要。過ぎた40余日が長かったのか短かったのか全く分からない。私は泣かないまま、毎日に何ら変化も見えず、元々ナマケモノではあるが、益々ぼんやりしている時間が多くなったかな。これって心の深い所では悲しくてウツ傾向なんじゃ…と思いかけると、頭の中で父の声が『自分の怠慢を父さんのせいにするなよ』と響くから、その度えへへと笑ってしまう。
 実のところ、私の奥のほうで動いている何かはあるのだろうか。時折自分の意識のスキャンを試みるのだが、やはり全く分からない。
 断片的に思い出すことがある。
 例えば父と見た深夜のTV。小学1年生の時、父と毎晩夜更かししていた。弟は疲れて午後8時には眠り込んでしまっているのだが、父は寝ない。早々に布団を敷いて父を真ん中に川の字、照明は落としてあって、TVの光だけが壁や天井を瞬かせる。ゴールデン枠の時代劇や刑事ドラマ、9時からの映画は11時に終わる。そこでニュースなんかを挟む一呼吸に、父が隣の私を見て「お前はもう寝ろよ」という。
「おとうさんはねないの?」
「うん、眠くないんや」
 深夜枠の再放送ドラマが始まる。「コンバット」や「チャーリーズエンジェル」、「スパイ大作戦」…。
 終わってしまっても、父は眠れないが、これ以上は子どもの教育上よろしくないとTVを消す。「さあ寝るぞ」
「おとうさんはねる?」
「寝るよ」
 しかし暗闇で父が目を覚ましているのが分かる。私はとりとめのない事を父に問い、父は答えてくれて、いつまでも続く。これではイカンと、或は父は面倒くさくなって、「さ、もうお話やめて寝るぞ」と打ち切る。
「だって、ねられないよぅ」
「寝られんでも目をつむっていなさい、そしたら寝られるから」
 仕方なく言う通りにするうちに小学1年生は眠ってしまうが、父は眠れないか、うとうとする程度で、朝刊が差し入れられる音で起きてしまうのだった。
 夜更けの天井にはカーテンとレールの隙間から街灯が差し込んで作る斜めの点線が出来ていた。父は考え事をしていた、昼となく夜となく。その年の初めに妻に先立たれ、呆然自失の真っただ中だった。
 『オーメン』の、屋根から落ちて刺さる十字架、少年の後頭部を剃ったら現れた「666」、ガラス板を積んだトラックがバックして起こる事故、ラストで振り返る少年の顔。『大脱走』で掘ったトンネルを這う兵、銃撃や追いかけてくるシェパード、バイクと土煙。子どもには怖い、同時に子どもだからよく分からなくて見られたホラーや戦争ものの映画のシーンが今でもふいっと浮かんでくることがある。

物だって元気に長生き

 形あるものはいつか壊れる、という言葉は、儚さを説いたものだと思うが。
 ものって長持ちするのだなぁとつくづく感じる。
 スプーンとフォークが1組、ティスプーン2本、シュガースプーン1本、ガラス角皿3枚、楕円皿1枚、耐熱ガラスのティカップ1個。これらはすべて母が亡くなった時に既に家にあったから、少なくとも42年は使っていることになる。
 大学へ入って下宿生活を始める時に持ち出し、結婚した時にそのまま持ってきた。本当はシュガーポットもあったのだけれど、これは4年前に割ってしまった。お茶碗なんかをよく割るのは母譲り。
 ガラス皿は縁を何か所か欠けさせているが、昔の製品らしい分厚いものだから割れてしまわずに、夏には冷や奴を受け止めて食卓に上がってくれる。時々箸を止めて、まだここに在ることにしみじみしてしまう。
 ひとが諦めなければ時にものでさえ永遠に生き続けることが出来るのだと、そう思わせてくれる器たち。思わぬ母からの贈り物だ。

ケチ、治したいなぁ

 最近になって発見した事がある。ケチには3つのタイプがあるんじゃないかと。
 物やお金を①出すのを渋る、入ってくるものにはあんまり執着しない②入ってくるものに意欲的、使うことも楽しむ③使うのにも収入にも執着する。
 ケチとひと口に言ってもタイプが違う、と思うようになったのは、私自身を省みたから。私は①のタイプ。
 夫の給料が増えることにはあまり興味がない。減らなければいい。収入が低くても、無駄遣いしなければやり繰りできる、と考える。宝くじなんか当たらなくてもいい、くじを買うお金でお米を買う方がいい。
 夫の職場の福利厚生の一環で、映画や美術館など自己啓発に使った費用を年間1万円まで補助するというのがある。鑑賞した半券を提出申請して受けるものだ。夫は「あとで返ってくるんだし、1万円いっぱいまで使わなきゃ損」というのだが、私にすれば「無理に使いたくない。使わなければ返してもらう必要もない」と思う。
 物を買うまでは物凄く慎重。本当に要るか、私に似合うか、価格は妥当かと迷いに迷う。しかし買ってしまった翌日に、同じ商品がセールで安くなってもあんまり気にならない。
 ポイントカードとか割引券とかはほとんど使わない。預金の利子についても考えたことがない。払うと決めた時点でその余の事はどうでもよくなる。
 これでは心が縮こまる、たまには自分が飲むインスタントコーヒーをちょっぴりリッチなのにしようと思い立ってスーパーマーケットへ行くのだが、商品棚の前で見比べるうち、数百円が惜しくなり、結局いつものを買って帰る。これを繰り返している。

宙ぶらりん

 駅から帰りに乗ったバス。向いの席から2人のご婦人の会話が聞こえた。
「猫の餌買いに来たの、1人4個迄やけど安くなってて。最近1匹減って3匹になったわ」
「うちも減ったわ。こないだの台風以来顔見せんようになって」
「凄い風やったけど、どないしてたんやろね、可哀想に」
 あれ、飼い猫じゃなく、どうも野良猫の話らしい。
 その後2人と同じバス停で降りて納得。バス停の向かいに、玄関前にいつも猫の餌皿と水の器が置かれているお宅があって、よく数匹の猫がたむろしているのだが、先ほど猫の餌を買ったと話していたのはなんとこのお宅の人だった。猫好きの私は通りかかる度、猫がいるかどうかを確認し、姿を見ては目を細めている。
 野良猫に餌を与えることには賛否ある。野良が野良のまま繁殖しない為には給餌しない方がいいに決まっている。けれど目の前に骨の浮いた体で餌を求めて見上げる猫がいたら。
 幸か不幸か、7年前の私は決断を免れた。我が家の庭にふらりと現れた野良猫には片耳にV字の切れ込みがあった。いわゆる地域猫。ボランティアさんのお世話になって避妊手術を受けた野良で、繁殖できない一代限りの命だから大目に見て下さい、という印だ。当時はこの家に引っ越して日も浅く、野良猫に餌をやるにはご近所の目が気になったが、これなら言い訳が立つ(言い逃れ、かな^^;)と私は餌をあげるようになった。関わってみれば、この猫は非常に警戒心が強く、他の猫とも馴染めない臆病さんだから、我が家は他の猫には構わず、この猫を責任をもって大事にしようと決めた。時間をかけて少しずつ慣れ、今では我が家で寝起きする家族となったが、もしもこの猫の耳がV字に切れてなかったら、私はどうしただろうか、と時々考えてしまう。
 近所のマンションの駐車場で、三毛猫が蹲っているのに気がついたのは数か月前だろうか。たいてい塀の上で人待ち顔をしている。ある朝、餌を貰っているのを見た。昼過ぎにも夕暮れにも見かけるから、ここに住み着いているのだろう。三毛の白い部分がうっすら汚れている。毛並みがすこぶる悪い。過酷な環境ゆえ野良猫の寿命は5~6年だと聞いたことがある。これから寒くなって、野良には厳しい季節になる。大丈夫だろうかと思っていた矢先に、先日の超大型台風が。
 翌日、ポーチにキャットフードを忍ばせてそのマンションへ行ってみたが三毛の姿はない。どこか風や雨をしのぐ場所があると信じたいが、駐車場脇の植え込みに、ちょうどペットのキャリーケース大の木箱が置かれていた。これは猫の為に誰かが置いたに違いない。ということは、ここより他にいく所がないということにならないか。いや一時的に避難しているのだ。明日になればきっと…。しかし、4日目の今朝もまだ戻ってきていない。
 所詮は私の上っ面な薄っぺらな同情心だと自覚しているが、三毛のことを考えるとやっぱり辛い。
 他にも例えば食肉と畜産のことだとか、棚上げにしたままに生きている。こんな時だ、私に子供がいなくて良かったと思うのは。答えてあげられないのだもの。
 ただ、三毛が戻っても私の偽善心は解消しないのだけれど、明日こそ姿が見たい。これは嘘偽りない気持ちだ。