思い出ゴハン、ってやつ(下

 車は修理に持ちこんだディーラーさんの奨めで、エンジン音が良いという理由で後から買った方を残し、見つかった方は手放した。そして私達が住むのはテントでもいいからとシャッター付きガレージを探し、今の家に落ち着いた。

 お袋の葬式の寿司、これは17年前のこと。
 義母に末期のすい臓がんが見つかり、僅か3か月で逝ってしまった。義父は喪主とは名ばかりで葬儀の準備を人任せにしようとした。義母は労を厭わず親切を尽くし、何より迷惑を掛けることを嫌う人だったから、一人息子の夫が見兼ねて万事を取り仕切った。とはいえ故人は59歳、喪主は定年退職したばかりの元会社役員だから葬儀の規模も小さくない。30代前半だった夫は、お袋の為に、お袋の為に、と自分を奮い立たせていたが、ともすれば蹲って泣きたくなる。義母の死を誰よりも嘆いているのは夫だ。大好きなお母さんだったのだ。
 どうにか通夜式を終え、弔問客が去ると、喪主は線香の番もせず親戚と帰っていった。あとには夫と私と二人きり。がらんと広い会場は蛍光灯で白々と明るく、並んだ折畳みテーブルの上には通夜振る舞いの寿司桶やら紙皿やら割り箸、おしぼり、林立するビール瓶、ジュース瓶、グラス、湯呑み…。それは寒々しい光景であると同時に、夫にひと心地をつかせるものだった。あとはゆっくりやろうと二人で後片付けを始めた。瓶、食器類を一箇所に寄せ、紙類をゴミ袋に入れていく。数個の寿司桶に少しずつ手つかずの寿司が残っていたのを、皿に集め終わると、夫が泣き笑いの顔になった。「お袋が俺達にこれを食えって言ってる…」お寿司はちょうど2人前の量があった。その日は朝から何も食べていなかった事に気付く。義母の愛情は特に食事に甲斐甲斐しかった。食事を抜くとかひもじい思いなどもってのほか、誰にでも惜しみなく美味しいものを振る舞う人だった。「よし食うぞ」と夫は泣き笑いのまま、割り箸を私にも持たせ、寿司を頬張った。日付が変わろうかという時刻で、夜通しの線香番と、告別式が控えていた。

 義父の通夜のチキンカツはまだ記憶に新しく、美味しかったけれど、やはり味覚に一枚薄い膜がかかった様な味わいとして留まっている。明け方のラーメン、義母の葬儀の寿司、…印象に強く残る食事は、美味しい美味しいと手離しに堪能できたのではなく、特別なほろ苦さの思い出なのだ。

思い出ゴハン、ってやつ(上

 夫婦で出掛けて用を済ませ、帰宅してすぐ食べられるようにとお弁当屋さんに寄った。お店一番人気のチキンカツは売り切れていたので別のものを買って帰った。
 テーブルにお弁当を並べながら未練たらしい私。
「チキンカツ、食べたかったねぇ」
 この店のお弁当はこれが2回目で、前に買ったのは今年5月の義父のお通夜の日だった。自宅から葬儀会場へ向かう途中で買い求め、親族控室でそわそわした気持ちで食べたが、「美味しかったんだよね」。
 すると夫が「食事って大事やな」と言う。どういうことかと考える私に、夫が言葉を継いだ。
「大事な時に食べたものって覚えてるもんな。親父の通夜のチキンカツ弁当だろ、それからあの明け方に食べたラーメンと、お袋の葬式の時の寿司と」

 

 明け方のラーメンというのは、もう20年ほど前のこと。
 結婚した年に買った車が翌年盗まれた。新車販売の終わった車種で中古しかなかったが、夫は惚れ込んで買い、雨の日には乗らない、錆びるから海の近くは走らない、洗車する度に斜め後ろから車を眺めては見とれていた。だから、落胆は酷いものだった。夫は塞ぎこみ、暫くすると休みの日にバイクに乗って中古車販売店を回った。盗まれた車がもしや売られていないかと。そんなことを3か月ほど続け、4か月目に次の車を買った。前と同じ車種を。するとその夜11時、隣の県の警察から電話がかかってきた。盗まれた車が見つかったというのだ。深夜になっていたが義父の車を借りてその署へ行った。
 乗り捨てられていたという。違うナンバープレートを付けられ、ボディーには数えきれないほどの擦れ傷や凹みがあったが紛れもなく我が家の愛車だった。車内にはスナック菓子の空き袋やトレーナー、窃盗犯の使う工具類一式が散乱していた。無残な姿に涙がにじんだ。夫は何やら書類を書かされ、夫婦の対照指紋を取られ、エンジンがかからないのでレッカー車を手配して改めて引き取りに来ることにして、署を出た。
 車が見つかった事は嬉しい。あんな姿になってしまって可哀想だが、それでも見つかってよかった。しかし、車が2台になった。車庫が無い、実家に置かせて貰うか、ガレージを借りるか、引っ越すか、2台分の維持費はどうするか、そもそも見つかったあの子は修理して動くのか、1台しか持てないとしたらどちらを選ぶ? 新しく買った綺麗な方か愛着のある前のか・・・家の近くまで帰ってくると午前4時になっていた。二人共が草臥れ、しかし神経は昂ったまま、どちらからともなく「お腹が空いたね」。
 あそこなら開いているだろうと、それまでにも時々訪れていたラーメン屋さんへ行った。自分達を棚に上げて、他にもお客さんがいるのに驚いた。当時はまだ30代とはいえ明け方のラーメンは罪悪感が伴う。私はハーフサイズにした。
 正直味なんか覚えていない。訳も分からずに食べ、それでも胃が温まってやはりほっとしたのだ。こんな時間に食べることなんてまずないだろうと思った。確か11月の初めだったから、ちょうど今時分の季節だったのだなぁ。(続く

廻る、廻る、

 季節はちゃんと進んでいくのだなぁ、地球規模の気候変動があると言われていても、日本では夏から秋へと移ろう。
 ひと月ほど考え事を巡らせている間にも、たゆまぬ自然の営みが行われていた。彼岸花が咲き、萩の花が揺れ、金木犀が匂い、柿が実り、桜が葉を落とし始めている。

 毎年だいたい9月の25日過ぎ、金木犀が匂ったらハイ今日から秋!と私は勝手に決めている。外出の度に鼻孔を膨らませてその香を嗅ぎするうち、ある日寒さを覚える。あれれもう上着が要るよ、空気が冷たくなったなぁと、午後の柔和な日差しを仰ぐ。

  テラス程の面積の我が家の庭に小ぶりな柿の木が一本ある。前の住人が植えたものだ。私はこれまで集合住宅ばかりで、庭のある家で暮らすのはこの家が初めて。8年になるが、どうやら柿には豊作の年とほとんど実の生らない年とがあるようだ。去年は数えるほどだった実が、今年はたわわでどの枝も垂れ下がるほどに。するとにわかに騒々しくなった。毎日カラスが交代で大騒ぎ。ヒヨドリも来る。アライグマまで木を登っているではないか。
 動物好きの私はこの千客万来が嬉しくてたまらないと同時に気の毒でならなかった。ええそうなんです、渋柿なんです。

 小ぶりながら平べったい愛らしい見た目に、カラスは仲間と争って枝にとまり、もぎ取った実を、食欲と共に落としていく。木の下には嘴の痕を残した実が転がり、日に日に数を増していく。
 この無残な光景を見かねて夫が高枝切鋏と剪定鋏を握り、夕暮れの庭へ出て行った。バケツ山盛り3杯の大収穫である。私はといえば家の中で「柿 渋抜き」「渋柿 保存」を検索。数年前の秋の終わりに一度、残り少なくなった柿をお酒に漬けて渋抜きをしたことがあったが、甘い熟柿を味わえた。今度は数が半端ないので保存を重点に、半分を塩水漬け、半分を冷凍にしてみた。出来れば干し柿にしたかったけれど、それには紐で吊るす為の枝を残して切っておかねばならなかったことを後で知った。

 塩水のほうは1か月ほど漬けておけるらしい。冷凍する分は皮を剥いて4つ割りにしてビニール袋に入れて冷凍庫へ。3日で抜けるというが果たして。念の為に1週間おいて一昨日恐る恐る1つを半解凍にして頬張ってみた。渋くない! 良いお八つが手に入ったとほくほく。昨日も朝から冷凍庫から3つ4つと出してきて立て続けに食べていたら、寒くてたまらなくなり、正午に湯船に浸かる始末。あ、渋抜きに、ビニール袋に入れた渋柿をひと晩残り湯に浸けるという方法もあるそう。

 渋の抜けた柿は、スーパーで売られている柿のように甘くはなく、そっけないほどあっさりした味だ。それでも自宅の庭に果物が生るなんて素敵じゃないの何たって無農薬、肥料もやったことがないのに、と考えたところで、あっとなった。

 我が家の元野良アポロにゃんは狩りの名手である。夏の夜、外出しては、どこで狩るのやらカヤネズミを咥えて帰ってくる。この夏は少なかった(家人に取り上げられないよう胃袋に隠していたのか?)が、昨夏は頻繁だった。アポロは悪くない。本能である、優秀なのである。しかし息も絶え絶えなネズミを見るのは辛かった。アポロが口を離した隙に亡骸を取り、翌日、お弁当(ウサギ用の乾燥フルーツや雑穀など)を持たせてネズミを埋めた。それが、くだんの柿の木の根元だったのだ。

 なんともいえない複雑な感情が湧きおこり、でもそれはすぐに静まって、これこそが正しく自然の営みなのだと知らされた。いつか私も誰かの滋養になれるかしら。命のサイクルの中にありがたく加えて頂こうと決め、またひと切れ口に入れた。

<私の浄心行-Ⅹ>

<只今セルフ心理療法中です、読むと重たいと思うので遠慮なくスルーして下さいね>

 大学を出ておいてよかった。予想通りだった。 
 幼い頃から成績のことを厳しく言われ、大学まで行くものだと思って育ったが、高校3年のある日、私は問うた。「ねえお父さん、私は親不孝者かな、こんなに経済的に苦しい家の子はもしかして進学を諦めて、家計の為に働くべきなのかな」「いいや、出来れば大学へは行ってほしい」「でも、お金ないよね」「・・・」「申し訳ないけど、大学へ行くね、でないと私…」きっと私は、父のせいで大学へ行けなかった、と一生恨み言を言い続けると思ったのだ。
 そうだ、私は我が儘を通したのだ。伴侶に先立たれ幼子を抱え疲弊していった父を、思い遣ることなく、働かないことを不甲斐なく思うようになっていた。選んだ大学は隣接県で、通えなくもなかったが、私はめぞん一刻みたいな古い学生アパートに下宿した。ずっとアルバイトを続けなければならなかったが、お金を自分で何とか出来ることにほっとした。こうして私は父の庇護なしに生きられるようになり、社会人になり、結婚して、あれほど大好きだった父から距離を置いていった。しかしその後も、時々勃発する父の経済面や認知症の問題に怯え、私の中に溜め込まれた負の記憶は、眠らず消えず、燻り続けることになった。
 そう、だからだ、父が亡くなった時、私はほっとしたのだ、泣かなかったのだ。

浄心行』というのは、お隣のSさんに伺った修業の一種。あの事が許せない、この人が憎い、等心の中の恨み辛みを洗いざらい紙に書き出す。普段は使うことを躊躇われる死ねボケカス等の罵りや口汚い表現も思いのままに包み隠さず。全部吐き出したらそれを焚き上げ、執着の心と共に灰にしてしまうのだという。
 男手一つで育ててくれた父が昨年亡くなった時に、私はなぜありがとうを言えなかったのか。
 この疑問から出発し、父へのわだかまりをここらで一度全部吐き出してしまおうと決め、書き始めたのだったが、それにより、曖昧だった父への憤りの中身がはっきりしたように思う。
 昭和一桁の頑固雷親父で気難しかったけれど、暴力を振るったことは無く、酒は飲んでもギャンブルに溺れたりせず、手仕事の数々を披露し、茶目っ気のある笑顔を子どもに向けてくれた。子に愛情を持ってくれていた。ただ、心が少し脆かった。自身が親の愛を知らず、祖母に甘やかされて育ち、我が儘で情緒不安定なところがあった。時に気持ちが弱くなってしまい、子を庇いきれなかったのだ。
 私は、父が逃げ腰になった分、矢面に立たねばならなかった。普通の子どもがしないような経験は沢山した。けれど、裏切られてはいない。言葉の幾つかに傷付いたことはあっても、私は父から心の虐待を受けてはいない。親が離婚した場合のような寂しさや複雑な怒りを私は知らない。父は子をほったらかして遊び歩いたことは無い。父に捨てられはしなかった。私が何かを聞けば父はいつも必ず真剣に答えてくれた。何を信条に生きるべきか。父譲りの変わり者で通すことになったけれど、学生時代の私は、いつも胸を張っていられた。(大人になった今のほうがかえって迷うことばかり(笑)

 これはずっと以前から思っていた事だけれど、私にとって父の最大最高の功績は、母の存在を植え付けてくれたことだ。母は私が小学校へ上がる直前に他界したというのに、私の傍にはずっと母がいた。
 母が亡くなった直後から、父は私と弟の前で常に母のことを口にした。ご飯が炊けるとまず母に供え、菊を供え、野山の草花を手折って供え、お菓子や果物を買ってきてはまず供え、何でもまず母が一番。夕食後は私と弟を神棚の前に座らせて、短いお経を読ませた。テストの答案用紙も成績表もお習字も図画も神棚に供え、「お母さんに見て貰え」。何かにつけ「そんな事したらお母さんが笑いよるぞ」と言った。
 一事が万事こうだったから、姿こそ見えないけれど、母は私の意識の中に当たり前にいた。私も普通に母に話しかけ、気まずいことがあると神棚を上目遣いに窺ったりしていた。そういえば一度だけ母に怒鳴ったことがある。小学校高学年ぐらいの時、学校で同級生との間で何かとても悔しいことがあって、帰宅するなりランドセルを投げだし、茶の間にひっくり返って、うわ~と泣きわめき、ふと神棚と目が合うと、「なんとか言ってよ、返事してよっ、神様なんだからそれぐらい出来るんでしょっ」と八つ当たりをしたことがあったっけ。母親のいない子だったのに、私は母を感じながら大人になれた。
 父には悪いけれど、私は父より母が大好きだ。父曰く母は”田舎者”でセンスが良くなくて洋服選びや化粧は下手、料理は父より下手、ちょっと不器用、学校の勉強は出来た、末っ子の甘え上手で人付合いがいい、字がバツグンに綺麗で上手い、父を一家の主として立て、口答えをしたことがない、「お前らのお母さんはホンマにええお母さんやった」が父の口癖だった。これが、33歳で亡くなった私の母だ。
 プリンやゼリー、シュークリームに挑戦して子どものお八つを手作りし、私と弟の洋服を縫ったり、父の腹巻を編んだり、マイホームを買う為にスーパーでパート勤めに出たり。気難しい父の機嫌を盛り上げながら、家庭を守ってあくせくと暮らしていた。私は母みたいな専業主婦になりたいと思っていた。その母の歳を通り越して久しいが、変わらず今も母が慕わしく、大人になって日々益々母に守られている事を感じる。
 他界して44年にもなる人間がこうも鮮やかに存在し続けているなんて、やはりすごい事だと思う。それをしてくれたのは父だから、…書いている今、初めて、これに関しては感謝の言葉を述べる気になった。ありがとう。…なんかちょっと、胸の辺りをもぞもぞさせながら(笑。

 「浄心行」、一区切りをつけることが出来ました。なんというか、本当に、少し、気が楽になっています。この重たいものに付き合って下さった方に感謝します。

<私の浄心行-9>

<只今セルフ心理療法中です、読むと重たいと思うので遠慮なくスルーして下さいね>

 今が幸せなのだから、本来、意識の底で眠らせておけばよい負の記憶。掘り起こすのにもエネルギーが要ると思い知る。書いていて重い。しかし囚われている以上、私には必要な作業だったと思う。この度お付き合い下さり、読んで下さっている方には申し訳ないけれど、その存在に励まされました。
 細々したものは幾らでもあってキリがない。ごろごろと転がっている中から目に付いた大きい塊をこのひと月の間取り出してきた。あとは…と広がる記憶の原っぱを見渡す。ここへきて、もう気が済んだでしょ、もういいんじゃないの、という思いが湧いてきているが、ここまでやったんだから出してしまいなさいよと言う自分もいて。
 あと辛かったのは、高校一年の学期末。
 父の仕事の不安定さは相変わらずで、だから経済状態も相変わらずだった。私は高校まで電車通学で一か月の定期券代が5000円程。それが手元になくて、確か3日ほど学校を休んだ。ようやく数百円を得て私は切符で学校へ行った。どうしても行きたかったのは吹奏楽部の練習だった。我が部は数年ごとにコンクールの全国大会へ進出する強豪校で、部員皆が勉強そっちのけで練習する。父は私に「そこまで一生懸命に打ち込めるもの、時間があるのは学生時代の今だけだ、成績がどうなろうと構わないから思い切りやれ」と認めてくれていて、ありがたく部活に励んでいた。
 さて3日ぶりの学校、授業が終わると部室へ飛んで行った。ところが部室の前で同級生が私に今すぐ帰れと言うのだ。病み上がりだろう、無理するなと。実は体調不良だと言って学校を休んでいたのだ。もう治ったと私が言っても、友達は心底心配してくれて、今日もう一日だけ体を休めろと言って引かない。しかし私だってなけなしの数百円を握りしめ、ようやく学校へ来られたのだ無駄にしたくなくて食い下がる。すると友達は上級生の部長を呼んできて私に部長命令を下させた。…帰るしかなくなった。温かい眼差しで見送る友達に、私は「何も分からないくせに…」と言わずにいられなかった。友達は「あんたは何でも一人で抱え込もうとする、悪い癖だよ」。言えないよこんな事、恥ずかしいし、言ってもどうにもならないし。
 さらに次の日、部活にも行けずにいると、玄関の呼び鈴が鳴った。そっと外を窺うと、なんと、部の先輩が、お母様らしき人と並んで立っているではないか。普段から気さくで面倒見のいい先輩だった。私が体調不良で休んだまま、電話も繋がらず(料金滞納で止まっていた)、案じてお見舞いに来てくれたのだろう。しかし仮病だし、家の中は猫がうろつき荒れ放題に散らかって、何よりも昼間からビールを飲んでいる無職の父がいた。扉を開けて出ていくことなどできず、息を殺していた。数分後、浮かない顔で先輩は帰っていった。その姿を窓のレースのカーテン越しに見届けた。
 結局1週間くらい休んだだろうか。
 部活に関しては、演奏会用の革靴を持っていなくて、合皮の1980円のローファーで十分なのにそれが買えなくて、苦しい言い訳をして友達に借りたりと、度々細々焦ることがあった。よく辞めずに3年生まで続けたものだ。
 夫とは中学時代同じ吹奏楽部だった。高校は別になったけれど、コンクールの会場では見かけたし、時々帰りの電車が一緒になった。
 去年父が亡くなってから、あの頃実はこんな状態だったの、と定期券や靴のことを初めて話すことが出来た。夫は態度や表情を変えることなく、「俺、そんな思いをしたことないから何て言っていいか分からんけど、それは辛いなぁ」と言った。「そんなん知ってたら、俺のお袋が黙っていなかったな。食べ物でも着るものでも、ほらあの通りの性格だから、うちへ呼んでぜ~んぶキミに揃えてあげて」「お義母さんらしいわ~」「うちへ来ればよかったのに」
 うん、でも思春期の私にはとてもとても口に出来なかったよ、アナタには中学時代片想いしてたし。それに今はアナタにチョコレートもアイスクリームも買って貰ってる。これってなんかすごいことだ。