<私の浄心行-Ⅹ>

<只今セルフ心理療法中です、読むと重たいと思うので遠慮なくスルーして下さいね>

 大学を出ておいてよかった。予想通りだった。 
 幼い頃から成績のことを厳しく言われ、大学まで行くものだと思って育ったが、高校3年のある日、私は問うた。「ねえお父さん、私は親不孝者かな、こんなに経済的に苦しい家の子はもしかして進学を諦めて、家計の為に働くべきなのかな」「いいや、出来れば大学へは行ってほしい」「でも、お金ないよね」「・・・」「申し訳ないけど、大学へ行くね、でないと私…」きっと私は、父のせいで大学へ行けなかった、と一生恨み言を言い続けると思ったのだ。
 そうだ、私は我が儘を通したのだ。伴侶に先立たれ幼子を抱え疲弊していった父を、思い遣ることなく、働かないことを不甲斐なく思うようになっていた。選んだ大学は隣接県で、通えなくもなかったが、私はめぞん一刻みたいな古い学生アパートに下宿した。ずっとアルバイトを続けなければならなかったが、お金を自分で何とか出来ることにほっとした。こうして私は父の庇護なしに生きられるようになり、社会人になり、結婚して、あれほど大好きだった父から距離を置いていった。しかしその後も、時々勃発する父の経済面や認知症の問題に怯え、私の中に溜め込まれた負の記憶は、眠らず消えず、燻り続けることになった。
 そう、だからだ、父が亡くなった時、私はほっとしたのだ、泣かなかったのだ。

浄心行』というのは、お隣のSさんに伺った修業の一種。あの事が許せない、この人が憎い、等心の中の恨み辛みを洗いざらい紙に書き出す。普段は使うことを躊躇われる死ねボケカス等の罵りや口汚い表現も思いのままに包み隠さず。全部吐き出したらそれを焚き上げ、執着の心と共に灰にしてしまうのだという。
 男手一つで育ててくれた父が昨年亡くなった時に、私はなぜありがとうを言えなかったのか。
 この疑問から出発し、父へのわだかまりをここらで一度全部吐き出してしまおうと決め、書き始めたのだったが、それにより、曖昧だった父への憤りの中身がはっきりしたように思う。
 昭和一桁の頑固雷親父で気難しかったけれど、暴力を振るったことは無く、酒は飲んでもギャンブルに溺れたりせず、手仕事の数々を披露し、茶目っ気のある笑顔を子どもに向けてくれた。子に愛情を持ってくれていた。ただ、心が少し脆かった。自身が親の愛を知らず、祖母に甘やかされて育ち、我が儘で情緒不安定なところがあった。時に気持ちが弱くなってしまい、子を庇いきれなかったのだ。
 私は、父が逃げ腰になった分、矢面に立たねばならなかった。普通の子どもがしないような経験は沢山した。けれど、裏切られてはいない。言葉の幾つかに傷付いたことはあっても、私は父から心の虐待を受けてはいない。親が離婚した場合のような寂しさや複雑な怒りを私は知らない。父は子をほったらかして遊び歩いたことは無い。父に捨てられはしなかった。私が何かを聞けば父はいつも必ず真剣に答えてくれた。何を信条に生きるべきか。父譲りの変わり者で通すことになったけれど、学生時代の私は、いつも胸を張っていられた。(大人になった今のほうがかえって迷うことばかり(笑)

 これはずっと以前から思っていた事だけれど、私にとって父の最大最高の功績は、母の存在を植え付けてくれたことだ。母は私が小学校へ上がる直前に他界したというのに、私の傍にはずっと母がいた。
 母が亡くなった直後から、父は私と弟の前で常に母のことを口にした。ご飯が炊けるとまず母に供え、菊を供え、野山の草花を手折って供え、お菓子や果物を買ってきてはまず供え、何でもまず母が一番。夕食後は私と弟を神棚の前に座らせて、短いお経を読ませた。テストの答案用紙も成績表もお習字も図画も神棚に供え、「お母さんに見て貰え」。何かにつけ「そんな事したらお母さんが笑いよるぞ」と言った。
 一事が万事こうだったから、姿こそ見えないけれど、母は私の意識の中に当たり前にいた。私も普通に母に話しかけ、気まずいことがあると神棚を上目遣いに窺ったりしていた。そういえば一度だけ母に怒鳴ったことがある。小学校高学年ぐらいの時、学校で同級生との間で何かとても悔しいことがあって、帰宅するなりランドセルを投げだし、茶の間にひっくり返って、うわ~と泣きわめき、ふと神棚と目が合うと、「なんとか言ってよ、返事してよっ、神様なんだからそれぐらい出来るんでしょっ」と八つ当たりをしたことがあったっけ。母親のいない子だったのに、私は母を感じながら大人になれた。
 父には悪いけれど、私は父より母が大好きだ。父曰く母は”田舎者”でセンスが良くなくて洋服選びや化粧は下手、料理は父より下手、ちょっと不器用、学校の勉強は出来た、末っ子の甘え上手で人付合いがいい、字がバツグンに綺麗で上手い、父を一家の主として立て、口答えをしたことがない、「お前らのお母さんはホンマにええお母さんやった」が父の口癖だった。これが、33歳で亡くなった私の母だ。
 プリンやゼリー、シュークリームに挑戦して子どものお八つを手作りし、私と弟の洋服を縫ったり、父の腹巻を編んだり、マイホームを買う為にスーパーでパート勤めに出たり。気難しい父の機嫌を盛り上げながら、家庭を守ってあくせくと暮らしていた。私は母みたいな専業主婦になりたいと思っていた。その母の歳を通り越して久しいが、変わらず今も母が慕わしく、大人になって日々益々母に守られている事を感じる。
 他界して44年にもなる人間がこうも鮮やかに存在し続けているなんて、やはりすごい事だと思う。それをしてくれたのは父だから、…書いている今、初めて、これに関しては感謝の言葉を述べる気になった。ありがとう。…なんかちょっと、胸の辺りをもぞもぞさせながら(笑。

 「浄心行」、一区切りをつけることが出来ました。なんというか、本当に、少し、気が楽になっています。この重たいものに付き合って下さった方に感謝します。