あなたがいなくてわたしは

 朝、セミの声にハッとした。今年初?  いや、もう数日前から鳴いていたのかもしれない。今朝耳に入ったのは、ようやく落ち着いてきたから?

 夫が留守になって6日目。関西から関東へ、予定ではひと月強帰らない。結婚して24年半、出張など滅多になく、これまでこんなにも長く家を空けることがなかったから、出発前からざわざわして、出かけてしまうとがらんとなってしまって。

 専業主婦の私は普段夫のペースで暮らしている。出勤時間から逆算して起き、あとは緩やかに帰宅時間めがけて過ぎていく。ごくたまに一泊の社員旅行があったりすると、何時に夕ご飯を食べたらいいか分からない。第一、自分ひとりの為に料理することもなかった。

 こんなふうだから、夫を見送った後、家に入って、台所で立ち尽くした。何をすればいいか分からないのだ。

 とりあえずシンクの食器を荒い、きょろきょろして、炊飯器に目が留まった。私ひとりならご飯は炊かない。しばらく使わない。よし磨こう。すると炊飯器が載った家電ラック本体と電子レンジとトースターとフードプロセッサーも気になった。普段ほったらかしなのに、食事もせずに徹底的に磨いて、お昼を過ぎていた。

 恥ずかしい話、こんなに掃除をするのは通常の精神状態ではないからだ。

 ともあれ綺麗になった家電達を見るのは清々しい。ラックを動かしたことで水屋やシンク、コンロ周りも目に付いて、翌日から「今日は何をしよう」とキッチンを見回している。長く置きっぱなしのダンボール箱も片付けた。

 少しすっきりした台所で夫を迎えられるかな。

 ところで、この夫不在を機に、私的大プロジェクトに取り組んでいる。詳細は次に。

  ♪ 4分強の掌編です・・・よろしければ・・・  

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ちっぽけな、ミステリ

 いつも少し悩ましい、文芸書のたぐいに付いているごく細いリボンのしおり。

 図書館で借りてきた小説に挟まれているしおり。

 読み進めるうち、開いたページで出くわす。前に借りた誰かがそこに挟んだ。

 そこに意図は。

 たまたま任意のページに挟まれたものか。

 それとも次の人に何かを示しているものか。この見開きページに注意を払うべき一説、素晴らしい箇所を、私は見つけられずにいるのか。

 読み終えて、本を閉じる時になって、さて。しおりをどこへ挟んでおこうかと考える。心に残るページを次の誰かに伝えようとは思わない。本の中ほどを適当に開いたものの、ここに意図が生まれやしないかと、はたと手を止め、一番最後のページにするのだ。

 結婚してこの町に住むようになってから、駅前の市立図書館のお世話になっている。

 ある時、借りた本の100ページ目のページ数が○で囲んであった。気付いてみると、ジャンルや法則性は見出せないが、かなりの頻度で出くわす。鉛筆だったりボールペンが使われていたり。誰が何のために?

 この世界で私が知り得ることなんてごくごく一部なのだ。

  ♪ この話を音声でも・・・よろしければ…  
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夫婦の欠けら

 グラスが割れて、咄嗟に思ったのは、私じゃなくてよかった、だった。

 朝の台所で、夫がグラスをシンクの中に置いた。手を放した途端、傾いて倒れた。鈍い音がした。すぐ隣でお弁当を包んでいた私と、立ち去りかけていた夫は顔を見合わせ、グラスを起こす。シンクに当たった側がぺきりと割れていた。

 なんで・・・俺、そっと置いたよな・・・、夫が立ち尽くす。

 うん、そっと置いてた。私、見てたよ。高い位置から落としたわけでも乱暴に扱ってもいないのに、こてんと倒れて、それで割れるなんて。

 夫は普段からものを丁寧に扱う。比べて、私は雑だ。わざとじゃないが、どんくさい上につい横着な振る舞いをしてしまう。食器をしょっちゅう割るものだから、結婚間もない頃には「キミが怪我してないならいいよ」とフォローした夫も数年後には「気を付けないと・・・」と絶句するようになった。

 父によると母も祖母もよく茶碗を割ったと言うから一種の遺伝だねと反省薄く開き直っていた私は、38歳でリウマチになって握力が極端に弱り、拍車がかかり、のち動きが鈍って、最近では壊すほどのスピードでものを扱えなくなっている。

 それでも、やはり、がちゃん、は時々やってしまうし、とにかく前科があり過ぎる。だからつい先週、『このグラス、割ってしまったらどうしよう』と怖くなったところだったのだ。そのグラスは夫のお気に入りだったから。

 ずいぶん、おそらく二十年ほど前に東急ハンズで見つけた、シンプルで大きいグラス。底のガラスは2センチくらい厚みがあり、その真ん中にひと粒の気泡が浮かんでいて、地球か真珠玉のよう。夫が買ったものの久しく食器棚の肥やしだった。それを去年から夫が朝食代わりにバナナヨーグルトドリンクを飲むようになって、たっぷりサイズがちょうどよくて、私がブレンダーで作ったドリンクを注いで供していた。

 グラスを買った東急ハンズは昨年末に閉店してしまっている。同じものは見つけられそうにない。ロフトに行ってみようかと、落胆する夫には申し訳ないが、なおも、割ったのが私でなくてよかったと思い、そんな自分の薄情さを思い知る。夫がこんなに落胆するなら、嫌な役を私が引き受ければよかったのかもしれないが、私はこれ以上夫に落胆されたくない。

 それにしても、割れる筈のない割れ方。こういうのは、もしや・・・と私が考えていたら、夫が。

「何か、持って行ってくれたのかな」

「それ、私も今ちょうど考えてた」

 ものが不思議な壊れ方、不思議な失くなり方をする・・・そういう時は、自分の身に降りかかる筈だった災いを持ち去ってくれたのだと、大学時代、私に教えてくれた友人がいたのだ。

 どんな災いだったのかな、キミがバイク事故に遭わずに済んだとか? アナタの初期緑内障の症状が好転するとか?

 日々の膨大な細々が夫婦の暮らしを造り続けていく。感謝と共にガラスの欠けらを紙に包んで、いつもの出勤支度に戻った。

   ♪ 近頃音声配信で遊んでます、トーク、朗読、お暇があればお越しください…

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理由は分からない、けれど、すきなんだ

 人見知り引っ込み思案だった私が、32歳を目前のある日、夫に打ち明けた。

「朗読を勉強したいの、学校へ行ってもいい?」

 夫は面食らっていた。いいけど、いきなり、どうして?

 私自身よく分からず、学生時代放送部だったとかそういう経験は一切なく、ただ子供の頃から駅のアナウンスなんかをやたら聴いてしまう子どもだった。

 アナウンスの学校へ通い、多少の仕事もでき、体調を理由に辞めて4年になるが、今もって理由は分からず仕舞いだ。

 ただこれだけは分かる。好き、なのだ。 

 先週から音声配信を初め、あの頃の気持ちを味わっている。

 ♪ 久々に読んでみました、気が向いて時間があれば聞いてやってください…

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初めてのデート、海老のしっぽ

 今年四月に他界された田村正和さんの追悼番組『古畑任三郎』シリーズをあらためて楽しんでいる。

 田村正和さんはプライベートを見せなかったという。特に食事する姿は家族にさえ見せず、ご自宅では離れで過ごされたとか。

 ものを食べる姿はエロティックで恥ずかしい、いつだったかTVで話す方がいた。

 私はそこまでは思わないけれど、梅干や果物の種、魚の小骨を人前で口から出す時、いつも躊躇を覚える。

 迷って焦った挙句、エビの尻尾を呑み込んだことがある。夫と付き合い始めたばかりの頃、初めて夕食を一緒に食べたときのことだ。

 ファミレスでメニューを開いて思案した。緊張していてもスプーンを使うものなら食べ易いだろうとグラタンを注文した。ところが。

 こんがり焦げ目のついたグラタンには小ぶりなエビが三つ載っていた、尻尾の殻が付いたままで。スプーンとフォークを使ってもその小さな殻をスマートに取る自信はなく、かといって手を使うことも躊躇われた。どうしようかとスプーンでエビをすくったところで、彼と目が合った。私は慌てて口に運んだ。

 が、出せるわけがない。覚悟を決めて、悟られぬよう、がじがじと尻尾を噛み砕き、呑み込んだ。

 途端に、あっ、となった。私のエビに殻がついていたことを彼が気付いていたら? 『あ、こいつ、エビを殻ごと食べた』と思われたんじゃないか。

 もう、顔から火が出そうだった。

 後になって、意を決して訊いてみたところ、彼はまったく気付いていなかった。

「何だそんなこと、気にしてたの」

 エビは彼の大好物だった。以後、殻の有無に関わらずエビは彼に引き受けてもらっている。なんとか愛想を着かされることなく交際は続き、結婚して今に至る。めでたしめでたし・・・?(笑

  ♪ この話を喋ってます、よろしければ…  

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