夫婦の欠けら

 グラスが割れて、咄嗟に思ったのは、私じゃなくてよかった、だった。

 朝の台所で、夫がグラスをシンクの中に置いた。手を放した途端、傾いて倒れた。鈍い音がした。すぐ隣でお弁当を包んでいた私と、立ち去りかけていた夫は顔を見合わせ、グラスを起こす。シンクに当たった側がぺきりと割れていた。

 なんで・・・俺、そっと置いたよな・・・、夫が立ち尽くす。

 うん、そっと置いてた。私、見てたよ。高い位置から落としたわけでも乱暴に扱ってもいないのに、こてんと倒れて、それで割れるなんて。

 夫は普段からものを丁寧に扱う。比べて、私は雑だ。わざとじゃないが、どんくさい上につい横着な振る舞いをしてしまう。食器をしょっちゅう割るものだから、結婚間もない頃には「キミが怪我してないならいいよ」とフォローした夫も数年後には「気を付けないと・・・」と絶句するようになった。

 父によると母も祖母もよく茶碗を割ったと言うから一種の遺伝だねと反省薄く開き直っていた私は、38歳でリウマチになって握力が極端に弱り、拍車がかかり、のち動きが鈍って、最近では壊すほどのスピードでものを扱えなくなっている。

 それでも、やはり、がちゃん、は時々やってしまうし、とにかく前科があり過ぎる。だからつい先週、『このグラス、割ってしまったらどうしよう』と怖くなったところだったのだ。そのグラスは夫のお気に入りだったから。

 ずいぶん、おそらく二十年ほど前に東急ハンズで見つけた、シンプルで大きいグラス。底のガラスは2センチくらい厚みがあり、その真ん中にひと粒の気泡が浮かんでいて、地球か真珠玉のよう。夫が買ったものの久しく食器棚の肥やしだった。それを去年から夫が朝食代わりにバナナヨーグルトドリンクを飲むようになって、たっぷりサイズがちょうどよくて、私がブレンダーで作ったドリンクを注いで供していた。

 グラスを買った東急ハンズは昨年末に閉店してしまっている。同じものは見つけられそうにない。ロフトに行ってみようかと、落胆する夫には申し訳ないが、なおも、割ったのが私でなくてよかったと思い、そんな自分の薄情さを思い知る。夫がこんなに落胆するなら、嫌な役を私が引き受ければよかったのかもしれないが、私はこれ以上夫に落胆されたくない。

 それにしても、割れる筈のない割れ方。こういうのは、もしや・・・と私が考えていたら、夫が。

「何か、持って行ってくれたのかな」

「それ、私も今ちょうど考えてた」

 ものが不思議な壊れ方、不思議な失くなり方をする・・・そういう時は、自分の身に降りかかる筈だった災いを持ち去ってくれたのだと、大学時代、私に教えてくれた友人がいたのだ。

 どんな災いだったのかな、キミがバイク事故に遭わずに済んだとか? アナタの初期緑内障の症状が好転するとか?

 日々の膨大な細々が夫婦の暮らしを造り続けていく。感謝と共にガラスの欠けらを紙に包んで、いつもの出勤支度に戻った。

   ♪ 近頃音声配信で遊んでます、トーク、朗読、お暇があればお越しください…

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