また一年が過ぎてゆきます

 いよいよ大晦日だねと、夫婦二人で言い合うのは、実感がないからかも。

 互に親も他界し、お蕎麦とお煮しめと鰤、お善哉を用意する位の規模のお正月ですが、穏やかに迎えられることがありがたいです。

 ここでは、愚にもつかぬ呟きを吐かせて頂き、にもかかわらず目を通して下さる方々の温かい眼差しに励まされています。

 いつも本当にありがとうございます。

 これからもよろしくお願い致します。

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楽しかったことなのに泣きたくなる

 懐かしいという感情は、なぜ涙腺に働くのだろう。

 その界隈は生活圏ではないが、時々訪れたことがあった。昔ながらの商店街。幼い頃、両親は時々ここで買い物をした。私の通った高校が近かったから部活帰りに遊びに行った。だから、今回久しぶりに出向くことになって、立ち寄った幾つかの店、一緒に歩いた同級生の顔を思い浮かべていた。

 JRの駅を降りて、まずは地下街を歩いていく。私鉄の駅へと続く、十分弱の長い地下道。前に来たのは何年前だっけ、十年、いやもっとか。さびれた感じは以前からで、それほど変化はない。卓球場が見えてきてはっとする。そうだ、ここには卓球場があったのだ。結婚前に夫と二度ほど卓球をしたことがあった。運動オンチの私だが、卓球だけは父に習って人並みに出来た。今はどうかな、まだ出来るのかな私。卓球場の隣はゲームセンターの筈だけどなくなっていた。器用な夫はあるゲームで私にキャラメルをゲットしてくれた。そういえば一時期よく二人でここに来ていたけど繁華街からは少し離れたここへ、あの頃なぜ足を運んでいたのだろう。今となっては思い出せない。行く宛てなく、ただ二人でいる為に時間を過ごして。

 私鉄駅の改札まで来たら階段を上がる。今度は地上のアーケードのある商店街を少し進む。ここも昔からの商店街だ。さびれた感じもあるが、パチンコ屋さんの前でタバコをふかしている老若男女、落語の寄席の前には呼び込みも立っている。かなりの数を並べた古本屋さんの戸口に色褪せたポスターは往年の海外スター、えっと・・・アランドロン!そうだアランドロンだ!そう、そう、アランドロンがまだ現役で貼られている、というか貼られたまま。そういう街だ、ここは。

 商店街を抜け、大きな公園を芝生に座り込む数十羽の鳩を横目に通って、いよいよ目当ての商店街に辿り着いた。

 その街区は再開発の途中らしく、囲われて入れない箇所もあったが、商店街は過ぎた時間を孕んでそのままの姿を留めていた。学校帰りに覗いた衣料品店、シェイクを飲んだハンバーガーショップ、あの喫茶店でパフェを食べたっけ。少し進んだ横手に、細い上り道があって別の商店街へ繋がっていく筈だったが。

 果たして、あった。でも、上り口の荒物屋はなかった。この店で、私はプラのコップを買ってもらったのだ。幼稚園で必要だった。入園前に両親とここへ買い物に来た。母が亡くなる九ヶ月前だったのだ。ピンク色で、おサルのイラストが描かれたコップ。私はおサルの絵気に入らないと駄々をこねたが、母は聞き入れてくれなかった。達筆の母が油性ペンで名前を書いてくれて、ピンクの毛糸で編んでくれたケースに入れて、一年間使った。

 さらに進むと、乾物や漬物を売る小さな商店が続き、人で賑わっている。父が年末に買い物に来ることがあったっけ。ぼんやりと歩く私の目に、珍しい赤カブの漬物が映る。父の好物だ。居たら喜ぶのに。そういえば、電気屋さんがなくなってる。大学時代に下宿で使ったミニコンポを買ったのはそこだった。

 そういえば小学校時代、お習字教室で仲良くなった友達がこの辺りに住んでて、自宅からは遠いここまで父が車で連れてきてくれたことがあったな。一時の付き合いだったが名前は確か・・・本間さん。肌が黒くてハーフっぽい、かっこいい顔立ち。

 中学生の頃に商店街の外れで父と待ち合わせをした時期があった。小さなペットショップがあって、そこで文鳥の雛を眺めて待っていた。へんなおじさんに声をかけられて逃げ出したことも。父が車を停めて現れると、向かいのお蕎麦屋さんに入るのだ。天ぷら蕎麦を食べる父。私は月見とろろ。

 次から次へと去来する記憶に胸がずきずき、眼球がじりじりしてきた。ちょうど用件の時間になったので、散策を打ち切り、感情を打ち切った。用件の後は逃げるようにその街を離れて帰途に着いた。

 夜、帰宅した夫に話した。

「なんでかなぁ、楽しい思い出なのに泣きたくなるなんて」

「いや分かるよ、胸が苦しくなるんだ」

 夫は小学六年生の時に転校していた。大学時代にかつて自分が住んだ町へ一人で行ってみた事があるがなんだか面白くなかった、と話してくれた。

「そういう場所にはね、一人で行っちゃ駄目なんだ。ここでどうした、あそこはこうだった、と話しながら行かないと辛くなるんだ。今度は一緒に行こう」

 行こう、今度はあなたが育った町にも。

微塵の躊躇もいらないのね

 今年は空や街路樹、道脇の草花の鮮やかさにハッとすることが多かった気がする。外出を控えたり、マスク着用で視野を狭くしているからだろうか、ふと目に留まる美しさが心に沁み入ってくる。

 紅葉の季節を迎えている。モミジの赤、イチョウの黄はもちろんだが、この数年、私は桜の落葉が楽しい。エンジ色の大きめの葉が落ちて、桜並木に降り積もった葉は、通りかかり、踏むと、ぱりり、とポテトチップみたいな乾いた音を立てる。乾いた、清々しい音だと思う。

 バスを降り、傾き始めた柔らかい日差しの中を歩いていて、もしやと、今まさに通り過ぎようとしている桜の枝を注視する。

 あ。やっぱり。米粒くらいの蕾がもうあった。

 数年前のお正月に見つけたのだが、むき出しの枝のそこここに小さいながらしっかりとした蕾があるのに気付いて、驚いた。今は12月だが、もう蕾がついていた。一体何時から準備は始まっているのだろう。まだ葉を落としたばかりなのに、春へ歩みだしている。

 私は何でもひと区切りとばかり終わりを意識しがちだけれど、自然界は常に次のステージへ進むこと、始まりしかないのかもしれない。

夫はこの24年をどう思っているのかな

 明日は結婚記念日だ。が、私はこういうイベントに演出が出来ない。気の利いたプレゼントも選べないし、料理も腕がない。二人で美味しいものをと思っても、普段通ってる回転寿司やおうどんといったB級グルメ好きだし、平日では翌日の夫の仕事が気になって寛げない。せめて食後にケーキでもと思っても寝る前に胸焼け胃もたれが懸念されるお年頃である。結局、「特別なことしなくていいよね」と夫に念を押しておくのだ。

 こんな調子で24年がたつが、子どもがいないからだろう、時が止まったような感じがしていて、結婚式の日をすんなりと思い出せる。

 以前も書いているかもしれないが、へそ曲がりな花嫁の父の反対を何とか凌いで、交際5年半にして結婚式にたどり着いた私。当日はもう嬉しくてホッとして、高砂の席でずっと微笑んでいた。花嫁の手紙も読まず、涙目の父に大きな花束を渡して、披露宴を終えると、夫の入社同期の数人と居酒屋で和やかな二次会。

 午後十時に店を出ると、雪が舞っていた。街のそこここにクリスマスツリーが瞬いている。空を見上げながら、

「ねえ、もう夜遅くに帰っても誰にも怒られないんだね」

「そうだよ」

「おんなじ家に帰れるんだね」

「そうだよ」

あの時の開放感、万能感は生涯忘れられないだろう。あの日、第二の人生が始まった。

 その夜は披露宴をあげたホテルで眠り、翌朝生まれて始めての海外旅行へ。スーツケースを引いてロビーからエントランスを出ると、真っ白な世界が広がっていた。

 結婚式の日のことで、もう一つ今も心にあるのは夫の言葉だ。

 司会者さんが新郎新婦にインタビューの時間に。

司「今日のお相手をご覧になって感想は?」

夫「白いです」(布量の多いウェディングドレスだった)

私も真似して「白いです」(夫は私に合わせて白いタキシードだった)

「どんな家庭を築きたいですか?」

夫「強い家庭です」

司「え、強い? 明るいとか笑いの絶えないとかじゃないんですね。新婦は?」

私も「強い家庭です」

と会場が軽い笑いになるよう答えをかぶせた。

 その時は深く考えなかったが、ヘンな答えだなとは思っていた。

 その後、夫婦二人の比較的平穏な生活にも、当然だが大波小波があった。家族の病気や死去、車の盗難、事故、仕事上の厄介ごとや小さな自治会トラブル、私の父の素行不良と認知症、エトセトラエトセトラ。

 あれは結婚して十年くらいの頃か、父が軽度の認知症になり、骨折入院中の病院で暴れて、泊りの付き添いが必要になった。大腿骨がきちんと直らないと、父は寝たきりになってしまう。固まるまでの三週間、油断がならない。私ばかりでは体を壊すと、夫が交代で泊まると譲らない。で、そのようにするが、夫は泊まった翌朝、病院から出勤することになる。朝、私が交代のために7時に行くと、目の下に隈の出来た笑顔を作り、よれたワイシャツで夫は病室を出て行った。ふと見ると、サイドテーブルにペットボトルのホットミルクティとレジ袋には病院向かいのパン屋さんのまだ温かいパン!!慌てて携帯電話をかけ、

「アナタ、朝ごはんを忘れて行ってる!まだ電車乗ってないでしょ、私今から持ってく、駅で待ってて!」

「ちがうよ、それ、キミの朝ごはん。あったかいうちに食べなさい」

私は打ちひしがれた。

 私と結婚したばかりに夫はこんなにも苦労を強いられる。離婚と言う選択肢もあるというと、夫は

「何言うてるんや、当たり前のことや、二人で何とか出来るやないか」

と揺らぐ様子がなかった。三週間後、父はしっかりと自分の足で歩き、徘徊するまでに回復した。

 その後も、何かあるごとに、すぐに嘆く私と違い、夫は一歩も引かず私の手をしっかりと取り、むしろ立ち向かうようだった。

 いつしか私はあの言葉を浮かび上がらせるようになっていった。

 「強い家庭」とはこういう意味だったのか、と。

 何かある毎に、夫は強くなる。

 近頃は比較的凪いだ夫婦の暮らしも、この夏私が脱臼した際には、夫の行動力と細やかな気遣いに改めて圧倒された。

 こんな夫と私は釣り合っているかしらと、いまだに自信がない。夫婦のことは夫婦にしか分からないなんていうけれど、夫婦にだって分かるもんか(笑

そう簡単に壊れてなるものか

 スクーターの自賠責保険を継続すべく、なじみのバイクショップへ向かう。

 期間は1~5年が選べる。2年なら8950円、3年で10790円。どちらにしようかな。スクーターはほぼ毎日使う。今までもそうだったし、これからもそうだろう、割安な3年くらいが適当だな。

 しかし。

 前回の手続きをした3年前を思い出した。ちょうど平成の天皇陛下の退位が話題に上り始めた頃で、ショップの方が保険期間を書類に記載しながら、

「・・・平成32年まで・・・、平成32年ってあるのかしら」

と仰っていたっけ。果たして令和2年と相成っている。

 お店に入り、まず消毒スプレーをお使いくださいと勧められ、今回交わした会話は、互いにマスク越しの「こんな事態になっちゃって」「ねぇ」だった。

 未来は予測不能に決まっているが、本当に思いがけないことになる。

 3年後の世界はどうなっているか、私達夫婦は大丈夫だろうか。どちらかの身に何かあったりして・・・。2年にしておこうか。いやいや、3年後も今と変わらず二人でバイクに乗っていられますようにと願を掛け、令和5年までの保険にした。