<私の浄心行-3>

<只今セルフ心理療法中です、読むと重たいと思うので遠慮なくスルーして下さいね>

 

 子どもの頃の私は父を神様のように凄い人だと思っていた。
 器用で、大工仕事、家電修理は勿論、料理、洋裁、編み物までこなした。動物に詳しく、巣から落ちた雛鳥に手製の道具を作って餌をあげたり、トリモチでメジロを捕まえたり。おもちゃも沢山作ってくれた。割り箸で輪ゴム銃、牛乳パックと銅板の電極で簡易パン焼き器。
 いろんな話をしてくれた。ガキ大将だった武勇伝の数々、13歳で終戦を迎えるまでの戦時中の話、飼っていた幾種もの動物の思い出、生まれ育った京都や同級生の様子・・・私は目を輝かせて聞いたものだ。
 勉強には厳しかった。小学1年生の私は毎日2時間以上机に向かっていた。後ろには父が竹の物差しを持って立っていて、私が余りモタつくと物差しでピシャリ。テストで人に負けるなと言った父自身、成績は良かったのだ。
 父は自分の持てる全てを我が子に注ごうと、確かに頑張ってくれていたが、背景には愛情だけでなく、引くに引けない意地があったと、私は観る。
 母や親戚に我が儘三昧を通してきた父が、ある日突然幼子2人を突きつけられる。素直に人に助けを求めることが出来ない。いっそどこかへ養子にでも出してしまいたいが、それでは自分を捨てた(育ててくれなかった)両親と同じではないか。とにかくやるしかない、なあにやれるさ、今までに大型犬を何頭も育ててきたではないか、なんとかなる…。
 けれど。父は姉が2人いて、末っ子の長男で、両親の愛情を知らず、祖父母に甘やかされて育った為だろう、線が細く、気に入らないことがあるとキレるか、折れてしまうような所があった。
 買い物は、レジに並ぶと近所の人にじろじろ見られるのが嫌だと、車で隣町へ行くか、私をお使いに出した。母は若くて生命保険になど入っていなかったから、貯金を切り崩す生活で、残高はじわりじわりと減っていく。当時はATMなどなく、住んでいたのは狭い町である。そんな内情を覗かれる気がして、窓口の行員と顔を合わしたくない。父は外に留めた車で待ち、6、7歳の私に窓口で出金させる。一度、午後3時の閉店に間に合うように、私を早退させたことがあった。父が連絡帳に「家事手伝いをさせますので本日は午後2時に帰宅させて下さい」と書き、これを担任の教師に見せろと言って、持たせた。読んだ若い男性教師はしばし沈黙の後、『お子さんの教育を第一に考えてあげて下さい』と書いて返した。これに父は「若造に何が分かるか」と烈火のごとく怒っていたが、翌日「お父さんが先生に文句を言うと、お前が気まずいだろうから黙っておく」と納めた。私は父を疑ったことがなかったから、先生が間違っていると思っていた。が、先生の指摘は図星だったからこそ痛く、ひと晩掛けて父は頭を冷やしたのだろう。
 私が小学2年、弟が幼稚園へ入ったのを機に、父は少しずつ仕事を始めたものの、子どもを家に置いてフルタイムで働くのは難しかった。昭和50年代には今のようにパートやアルバイトの口は少なく、まして男に、子どもが学校から帰る頃に帰宅できる仕事などない。子どもを留守番にならしておいて、ようやく就職しても、初めの内は私が事ある毎に会社に電話をかけるものだからさぞ困ったろう。
 父は、仕事には人一倍真摯に取り組むが、同僚や特に上司に理不尽な事を言われたりすると我慢が出来ない所があった。人間関係の折り合いをつけることが出来ないのだ。一度嫌気がさすともう気持ちが萎えてしまう。「辞めますわ」と帰ってきてしまうか、翌日から仕事に行かなくなった。
 ひと所に2、3か月勤めては辞め、しばらく家に居て求人広告を眺め、履歴書を書く。こうして職を転々とするのだから、家計はひっ迫していった。私が小学4年生くらいになると、その日食べるものにも困る事が度々になった。そういう懐事情を、私は父の隣ですべて見、父も私に共有させた。スーパーには私が行く。例えばその日預かったのが300円なら300円で夕食のおかずの最も有効な食材の組合せを考えた。今日は500円あると喜んでいると、父が「ごめんやけど、その中からタバコだけ買わせてくれ。酒は我慢できるけどタバコは無いと辛いんじゃ」と言う。父はヘビースモーカーだった。タバコは180円くらいだったか。当時の私はそんな父に対し何の反発も抱かなかった。一日に40本でも吸う父がさすがに日に数本で我慢しているのを可哀想にさえ思っていた。今思えば酷い父親だ。
 私は学校から帰ると、再放送の時代劇を見る父の横で新聞の求人広告覧をチェックし、「これはどう?」と父に見せる。「う~ん、行ってみるか」と父が履歴書を書き始める。職歴欄を端折る父に「違ってるよ、A社の後はB社で、次がC社」と正すのだが、父は「ええねん、ええねん、多少違っても向こうは知らん」。
 面接には落ちない父が、新しい会社へ勤め始めると、ホッとすると同時に、今度はどれくらい持つだろうかと、新たな心配もスタートする。今度こそと願いながら、期待しないよう自分に言いきかせてもいた。

<私の浄心行-2>

<これは私の内面の断捨離、勝手な心情吐露です、遠慮なくスルーして下さいね>

 

 私が小学校へ入学する3か月前に母が亡くなり、父子家庭となった。
 父自身、両親が不仲で祖父母に育てられ、故郷を飛び出すように離れた為、幼子を面倒見てくれる親戚は身近にいなかった。気難しい父は母方の親類によく思われていなかった。
 母方の祖母はそれまでも時々田舎から出て来てくれていたので、母の葬儀の後も幼子の面倒を見る為に残ってくれたが、父と度々口論になり、田舎に帰っていった。
 祖母はうちを出る時、私に言った。
「お父さんにあんまりお酒を飲ませないよう、あなたが止めなさい」
 当時紳士服販売を自営で行っていた父は、幼子を抱え仕事に行けず、うちにいて、昼間からビールを飲んでいた。夜まで飲み続けに瓶ビールを何本も空ける。体を壊す、と祖母が心配するのは当たり前だ。
 母が亡くなって、父まで病気で死んでしまったらと、6歳の私は考えた。飲まないでと度々訴えてみたが、父は「お前が心配せんでも大丈夫や」と穏やかな笑顔で取り合わない。
 ある日、何故お酒を飲むのかと私が問うと、父は「飲むと辛いのがぼんやりして、少し楽なんや」と言った。が、父は幾ら飲んでも酔えないようだった。病気になって死んじゃうよと私が言うと、父は「お父さん早く死にたいんや、死んでお母さんの所へ行きたいんや」と穏やかに悲しそうに私を見つめた。
 その日以来、私は父のお酒を止めるのをやめた。
 仕方がない、大好きな父が辛いのは可哀想だから。
 父は体を壊して死ぬ。父もいなくなって、後には私と弟だけが残される。これだけは訊いておかねば。「おとうさんが死んだら、誰に連絡したらいい?」 お葬式をして、その後、私と弟はどうやって生きていけばいいのか、も。多分施設に行くことになるだろうと父は言った。私がどんなにしっかりしていても、未成年では自分達だけで生きていけない。せめて高校生ぐらいだったらと、父は言うが、父のお酒の量では私が小学校を卒業するまでに父は死んでしまうだろう。
 その日をずっと覚悟し続けて成長したが、なんのことはない、父は85歳まで生きた。

<私の浄心行-1>

<これは私の内面の断捨離、勝手な心情吐露です、スルーして下さいね>

 

 父が亡くなって1年が経った。
 葬儀で弟が父の亡骸にありがとうと言った時、その言葉を、私は自分がまだ父へ掛けていないことに気付いた。出棺前の最期のお別れの場面である。急いで掛けようとしたが、その言葉は、私の心の中のどこを探しても見つからない。
 途方にくれたがこの期に及んで形だけの感謝を伝えて何になる、無いものは無いのだ。だからただ感じたままの『ようやく帰れるね、よかったね』だけで送った。
 そしてそのことが課題として残されることになった。
 私はなぜ父へありがとうを言わなかったのか。
 妻を病で亡くし、幼い子ども2人を育てた父。昭和一桁生まれの偏屈雷親父ではあったが、暴力を振るうようなことは一切なかった。持ち前の器用さで料理から裁縫までこなせた父。現に私も弟も餓死することなく成長してそれぞれの家庭を持って生きている。
 高校を卒業するまで、むしろ私はお父さん子ですらあった。
 それなのに。大人になった私の内からは父への苦々しい思いがとつりとつりとこみ上げてくるのだった。
 特にこの一年は、これまで夫に話したことのなかった子ども時分の幾つかが口をついて出た。別に隠そうと思っていたつもりはない。父が亡くなったことで私自身がようやくそれを口に出すことができたのだろう。

 お隣の、母親程の歳のSさんとは以前から親しくお付き合いを頂いている。真理や哲学に精通しておられるSさんとの会話はいつも私に学びと気づきを与えてくれる。
 数日前、Sさんと電話中、話の流れでSさんから「どうもあなたの中には尖ったものがある。子どもの頃はどんなだったの?」と尋ねられ、振り返って私はこう答えた。
「高校を卒業するまでは毎日が闘いでした」
 そう、私は、一日も心安らかだったことはなかった。常に不安と焦燥を抱えていた。
 同級生である夫は、中学時代の私を「抜き身の刀を持って歩いていた」と評する。今はもう闘う必要なんかないのにまだ私は刀を抜いたまま持っているのだろう。
「一度全部吐き出して見なさい」とSさんは言った。
 そうすれば私は刀を捨て、取り戻せるのではないか、父への「ありがとう」を。
 
 Sさんとの電話を終える段になって気づいたが、それは奇しくも父の命日だった。
 これからゆっくりと心を解いていってみようと思う。

それは周りの人間をも幸せにする

  そうそう、前回書いた父の一周忌法事では、伯母への苛立ちなんか放り投げておいて、特筆したい発見があったのだった。

 小学5年生の姪、弟夫婦の一人娘のこと。

 私が弟と会うのが年に1,2回だから、これまでに姪と過ごした時間は僅かだ。弟が語る所の姪は、同じ遊びを何度も繰り返しねだってきたりして面倒なところがあったり、ゲームや球技などを勝つまで止めようとしない負けず嫌いな娘だという。私の印象では、義妹がしっかり躾けているから、人前では姪はお行儀よく大人しいが、かといって私のように人見知りがなく、物怖じしない伸びやかさを感じる。

 先日の法事の後、伯母を送る往復3時間の道中、車の後部座席でお利口に座る姪の隣で、私に出来ることは何かなぁと考えた挙句…。
「おばちゃん、早口言葉が得意なんだ、勝負する?」
 どんくさい私だが昔…といってもわりと直近の数年前…取った杵柄、アナウンスの勉強で滑舌を訓練している。

 姪は目を輝かせて乗ってきた。が、ちょっと不器用? 何回トライしても言えない言葉が多い。こういう時、不足なのは口ではなく耳の力。まず聴き取れなければ発音できないのだ。
 すぐにはうまくならない。いいかげん嫌になってくるものだろうに、姪は何度でも繰り返す。結局、車中ずっと早口言葉で一緒に遊べた。

 そして気がついた。この娘の負けず嫌いはタチがいい、と。

 負けず嫌いは世に沢山いる。皆多かれ少なかれそういう性質を持っている。上手く出来れば嬉しいが、やり込められれば面白くない。負け続ければ、次第に不貞腐れてしまうのではないだろうか。大人はプライドと自制心とであからさまに出さないが、かつてTVで卓球に負けて泣きじゃくる幼女を思い出す。

 姪は、負けても負けても諦めず、出来るまでやる、機嫌が良いままで。素晴らしい!
 機嫌がいい、ということの美徳に感じ入った。

誰の想いも酌めず。駄目私

「一緒じゃん」 お風呂上りの洗面所で自嘲の言葉が口をついた。
 それが茶の間の夫に聞こえて、「何のこと?」。
「伯母さんへの怒りがまた沸々と、ね…」
 それは先週の、父の一周忌法要でのこと。

 昨年亡くなった父には姉がいる。幾つかの持病を抱えながらも気丈で御年89歳。電話の声も、手紙の文字も、まあ御達者な様子が窺える。
 隣の県にお住まいだが、父とは時々の電話のみで行き来のないまま、晩年に至っては音信も途絶えていた。父が亡くなった朝、葬儀にお越し頂くことは無理だろうと私が電話でお知らせしたところ、案の定伯母は前日まで入院していたとのことだった。

 伯母にしてみれば後から後から後悔が沸いてくる。生前になぜ会っておかなかったか、無理をしてでも葬儀に行けなかったか、と。
 だから一周忌には参りたいと伯母から手紙が届いたのだが、急なことで伯母を迎えに行く手だてが調わない。伯母は、現在体調も落ち着いていて、JRで一本だから一人で出向くと言う。私も夫も弟夫婦も気が気でなかった。

 そして当日朝、駅の改札口に現れた伯母は、娘(私の従姉)に伴われていた。
 そうだよな。今年89歳の母親を不案内な他府県へ、乗り換えなしとはいえ早朝に一人で1時間も電車に乗せられないよな。
 従姉は伯母を私達に託し、そのまま改札の中へ引き返して行った。法事後には弟夫婦と車で伯母を自宅まで送った。

 一人で大丈夫、その言葉を真に受けた私が馬鹿だった。伯母も考えるべきではなかったか。従姉の心配はもっともだ。自分の思いだけを通そうとするのは傍迷惑だろう。いやそれでも弟の法事に行きたいと思った伯母の希望を叶えて…しかしそれには準備がいる。伯母は周りへの影響を分かった上で思いを通した。それはやはり我が儘だろう。いやいや言い募っても私が考え足らずだっただけのことだ。
 自分への情けなさが伯母への恨み言となり、頭の中で”もう嫌、金輪際伯母とは付き合わないぞ”と思った。その頑なな言葉に自分でハッとして「一緒じゃん」。
 父にそっくり、こういう思考、物言い。父の、私が大嫌いだったところ。

 ひとしきり話を聞いた夫は「今後のこともあるから、お従姉さんには言い訳もかねて連絡しておいたら」と勧めてくれたが、私は「もういいの」と言い張った。
 すると夫が「ふうん。とにかく俺は自分の考えは言ったよ」。
「うん、ありがと」とは返事したが、夫の思いを無にしたのが気まずくて、私はふて寝みたいに布団へ倒れ込んで先に就寝。
 今朝は普通に夫を見送って、ひとりになって、少しずつ少しずつ落ち込んできた。どんよりとしているとお昼前に電話が鳴った。夫からだ。
「ご飯食べたか」「まだ。あなたは?」「今」「…なんで電話くれたの?」「なんとなく掛けようと思っただけ」「ありがとう」

 なんやかやと立てなくていいさざ波を大きく捉えて鬱々して、助けられているのだなぁ。夫は私をどう思っているのだろう。