春ってそういうことか

 これだけ春めいてくればと、頭の中で勝手に桜の蕾を膨らませている。
 うちの近所に、ただの坂道なんだけど、桜の名所がある。車が交互通行できないほど狭い、長くて急な坂の、両側から樹齢60余年の桜並木が枝を差し掛け、トンネルを作る。普段は閑散とした住宅街の真ん中に、年に2週間だけ人と車の渋滞が出現する。誰もがゆっくりとしか進まないからだ。
 下り一方通行のこの坂は市バスの路線になっていて、大型のバスが枝を避けながら下りる様も中々のものだ。車窓のすぐ傍に花たわわな枝がある。そして開花の時期だけ、坂を走る間だけ車内に流れる「さくらさくら」の琴の音。
 「さくらさくら」は私が今も唯一弾ける曲だ。お琴の譜面は漢数字で書いてある。その番号を覚えているのだ。張られた弦の番号で「七七八、七七八、七八九八七…」。
 亡き母が嗜んだ琴を、父は私にも小学2年の時に習わせた。
 電車で15分、駅から歩いて10分、稽古が60分。週1回ではあるがその日は友達と遊べない。琴は大きく、弦は硬く、指にはめる爪は窮屈。ろくに練習しないから上達もせず苦痛なばかり。見かねた父が辞めさせた時にはほっとしたものだ。
 これは後になって父に聞いた事で、私は覚えていないのだが、母が亡くなった直後に小学校へ入学した私は、学習机の上に飾った母のスナップをぼーっと眺めていることがよくあった。父にはそれが辛くて、私からぼんやりする時間を取り上げたくて、わざと時間のかかる遠くへ通わせたという。
 お琴。今なら喜んで通うのに。お琴が弾けるなんて素敵だ。勿体なかったかな。
 そういえば夫も似たようなことを言っていた。中学時代、吹奏楽部に入ったものの楽譜が読めなくて大苦労で、ピアノ位習わせといてくれたらよかったのにと母親にこぼしたところ、「何言ってんの、あんたが幼稚園の時に私が習わせようとしたら、ピアノと習字だけは嫌だって聞かなかったんじゃないのっ」。
 形の上では親の期待を裏切った事は多々あれど、注がれた愛情や思いが消えることはない。私は蓄えている筈だ。まだ持ったままだ。慌てる必要はないけれど、時間は確実に少なくなっていく。お父さんお母さん、さあて何に使おうか。