紅葉の季節

 人を変えることは出来ない、とはよく聞かれる言葉。故意に指図して相手の反発を生み、反対方向へ動かすことは可能かもしれないが。
 そうではなく、意図しないところで、自分が人を変えてしまうということがあるのかなと考えるようになった。
 それは、夫に私の父と似た部分を感じる時だ。元々全く違うタイプだと思うし、これまでそういう事はなかったのだが、結婚して20年が過ぎた最近になって、ふとした瞬間に感じ、あれっとなる。
 こんな似たところがあったの? 父親に似た人を結婚相手に選ぶというようなことも聞いた事があるが、自分でも気づかないうちに選んでいたのかしら??
 …いやいやそうじゃない、と思うのだ。私の言動が父にも夫にも同じ態度をとらせるのではないかと。
 私の持つ嫌な癖に処する方法は似通うだろうし、私が喜ぶ事を知っている人なら同様にしてくれるだろう。その結果、身近であればあるほど私にとって似た人になっていく。
 反対も然り。本当は想像をはるかに超えて干渉し合って相手を変えているとしたら、夫婦はどうだろう。似たもの夫婦を目指すべきか、それとも正反対になって補い合える関係がいいのかな。

寂しさには平気でなく強弱があるだけ

 届いてから中二日をおいてようやく手紙を読んだ。
 休みで家にいた夫の傍で、なんとなく寝そべってしまったのは自分自身へさりげなさを装いたかったからだろう。だって近頃は手術した足先を持て余すから腹這いになることがなくなっていたから。
 封筒から抜き出した便せんは薄かった。四つ折りで2枚。そう細かくない文字も透けて見える。この分量で書かれることとはなんだろうと開いてみれば、葬儀に参列できなかったことが日に日に悔やまれており体調も良くなったのでお参りさせてほしい旨だった。
 私は期待していたのだ。弟の見ていた父が私のものと違うように、伯母しか知らない、姉目線で語られる父のエピソードが便せん何枚にもわたって綴られるのを。
 葬儀が済んだばかりの9月末にも伯母から現金書留が届いていた。御香典に便せんが一枚添えられていて、”長い手紙を書こうと思ったが、それより先にこれでお花でも供えて、仏壇を賑やかして欲しい、あの子は寂しがり屋だったから”とあった。
 ”あの子は寂しがり屋だった”
 私には意外な言葉だった。父は、いつもどこかしらひとりで、平気そうだった。そう見えたし、ひとりでいるのには別に慣れている、と父自身で言ったことがあった。
 けれど。
 平気であることと慣れていることとは違うんだ。
 違ったんだ。
 寂しいことに平気な人なんていないのかもしれない。境遇と年月の中で慣れざるを得なくて、比較的寂しさに強くいられるようになるだけ。
 
 今年の春頃から、久しぶりに伯母を訪ねたいと思っていた。父に祖父母のことを訊いても頼りなくて、これはしっかり者の伯母に伺っておかねばと思ったからだった。父が亡くなった日の電話で、この事も伯母に伝えていたのだが、短い手紙にいよいよ思いを強くした。

父をテーブルの上に投げ出したまま

 父が亡くなって24日。まだ24日と言える日数なのに、もっとはるか昔のことのような、初めから何もなかったような。それほどに変わりない毎日を送っている。まだ彼岸への途中の父がさぞびっくりしているだろう、”お前は泣きもしないんだな”と。
 父子家庭の、お父さん子の私だったが、結婚して父のもとを離れて21年、施設で暮らす父を訪ねる形になって12年、確かに私の日常に父は影響しなくなって久しいが、こうも心が凪いでいられるかと、自らの冷淡さが後ろめたくさえある。いがみ合って別れたわけでもないのに。いやむしろ恨み辛みでもあったなら。多少のそれはもう済んでしまっていた。
 そう高を括っていたから、昨日は慌てちゃった。
 本屋さんの前を通りかかった時のこと。”ああもう『中央公論』を買わなくていいんだ。” 毎月父に届けていた雑誌。そう思ったらじ~んと痛んだ。痛んだことにほっとした自分がいた。

 帰宅すると郵便受けに伯母からの封書があった。89歳の父の姉。遠方で持病があり、葬儀に参列できなかったが、伯母は「お葬式が落ち着いた頃にお手紙を書かせて貰います」と言っていた。
 生成りの封筒に縦書きの住所と宛名は、若々しい文字だと思う。稚拙だという意味では全然なく、流麗過ぎる達筆ではなく、丁寧な楷書で、字の上手い同級生から届いたよう。
 裏返して、伯母の名前をもう一度眺める。ほの暖かく、けれど何か重くて、そのままテーブルの上に置いてしまった。
 夜帰宅した夫が目を留めたので、私は「なんかね、開けられないの」と言い訳した。一先ず夕食を済ませ、食器を下げるとやはりそこにあって、夫が「俺が開けてあげようか」と言う。
「ううん、そうよね、読まないわけにはいかないし、中身は気になるのよね」
 夫が携帯を弄る傍で、私は鋏をとって封筒の上を2ミリほど切った。一度立って夫の前にお煎餅を出し、台所へ戻ってミルクティを淹れた。

 今朝、朝ご飯のテーブルに着いた夫が、片隅に置かれた封筒を見て、「それで伯母さんはなんて?」と訊いた。
「それが、ね。封は切ったものの、出してないの」
「ふうん。…よっぽど気が重いんだな」
 どうだろうか。重い、というんじゃなくて、ちょっと怖い、かな。何が書いてあるんだろう。開けるのが怖い。
 たぶん、何もなかったことにしておきたいのじゃないかな私は。父は死んだも生きたもない。
 伯母は電話口で「たった一人の弟ですさかいに…」と泣いた。
 今日こそは夜までに読んでおく、と出勤する夫に言ったのだったが。

本当はおばちゃんも人見知りなんだよ

 子どもの不器用さ、とでもいおうか。
 ずっしりと重い買い物袋を肩にバスを降りて、自宅へと歩き始めると、後ろから私の脇を小学1,2年生くらいの男の子が駆けてゆく。その背中は順当に遠ざかる筈だったのに、私を追い越したところで、何かにハッとしたように振り返った。私を見た。ああこの子はうろ覚えだが斜向かいのボク。向こうの顔にも”あ、向かいのおばちゃん”と書いてあった。一瞬の逡巡、そして改めて慌てて前を向いて走っていった。ふふっと笑ってしまった。
 お向さんとはたまのあいさつ程度の付き合いである。男の子にはこれまでに何度か「こんにちは」と言ってみたが、首をすくめるように会釈を返してくれるのが精いっぱいの様子だ。あんまりよく知らないオトナに話しかけられたと感じたか、少し人見知りなのかもしれない。
 男の子は、追い抜きざまに”アレッこのひとひょっとして”と思って、思ったら気になって確認してしまい、私と分かり、目が合ってギクッとなったのだ。
 自分から挨拶をするなんて出来ないのだから、アレッと思ってもそのまま行き過ぎてしまえばいいのに。或いはもう少し注意力があったら、追い越す前に私だと分かった上で知らん顔して駆けていける。”向かいのおばちゃん”かどうか確信が持てなくても、もうちょっとこう、さりげなく確認する、とか。
 出来ないんだな。思いっきり、振り返るんだもん、おばちゃんだって気まずいんだから。

同じ日はなく・・

 今朝は蒸し暑くなかったですか?

 祝日の朝6時、世界はまだ空気をかき回す活動が行われていなかったからでしょう、新聞取りに玄関扉を開けたら、濃厚な金木犀の香りに圧倒されました。なんかこう、暖かく湿った香気が重く沈殿してたようでした。

 金木犀の香りは大好きです。斜向かいに樹高5メートルの立派な木があって、毎年鼻の穴を膨らませています。9月末から匂い初め、そろそろ終わるのかしらと惜しんでいたのですが、前日の雨が上がって、花たちは仕切り直したように香気を放ってくれています。ああそれでもゆく秋が惜しい。

 先週からセーター引っ張り出して着てたのに、今日の日中は真夏日。季節は揺り戻しを繰り返しながら進んでいく。心地よい気候の日なんて一瞬ですね。だからこそいとおしい。言ってるそばからすぐに寒くなるんでしょうね。