ゆさとのお別れ 2

 3年前のゆさのウイルス発作以降は、神様が与えてくれたロスタイム・・・近頃はアディショナルタイムというようにサッカー中継で変わっていたっけ、とにかくそのオマケみたいな時間だろう。

 人生の目的のひとつを「愛情を学ぶこと」だと私はこの数年考えるようになった。
 普段から愛情深く甲斐甲斐しい人(夫の母がそう。本当に献身的な人だった)にはクリア出来てしまっていて、意識する必要もないだろうが、私にとっては大きな課題だと気づいたのだ。
 多くの人が、親から受けた愛情をエネルギーにして人生を開き進み、周りの人々と縁を築き、我が子を持てば愛情を注ぎ、老いてゆく親を看取る。この経緯を通じて生涯の学びを得る。ところが私ときたら、子を生まず育てず、親の介護からも免れてしまった。
 そんな私に与えられたせめてものレッスンの機会が、動物や植物、生き物との関わりだと思えてきた。
 子ども時分から動物好きの父親の影響で生き物が身近にいた。だから自分のことを、動物好きで生き物に親しいと思っていたが、あらためて省みると、決して生き物好きとは言えなかった。面倒くさがり屋で亀の水槽の水換えや小鳥のケージ掃除を怠るし、接し方が身勝手だ。言うことをきいてくれないとイライラする。

 3年前のあの時あのままゆさが死んでしまっていたら、私は後悔すら出来なかったかもしれない。
 この3年間にしても、純真無垢なゆさに誠実に答えられたわけではない。ゆさの悪気ない、遊びの延長のひと噛みに「痛い」と本気で腹を立てたし、ネットサーフィンをだらだらしていて部屋んぽの時間を飛ばしてしまったり。こういう時、猫や鳥と違って鳴かない生き物は損である。私はつくづく未熟な人間。可哀想なことばかりしてきた。

 13歳になった今年の春はまだ、加齢による白内障で黒目が白く濁り、ジャンプ力こそ落ちてきていたものの、ケージから出せば変わりなく私の周りを駆けて遊んだ。この分なら14歳、15歳までも大丈夫ではないかと頼もしかった。
 急激に衰えを見せ始めたのは7月半ばだった。・・・左の後ろ足は以前から引きずり気味だったが、今度は右の前足を踏ん張れないようで、つんのめって転び始めた。日に日に転ぶ回数が増えた。頭も右へ傾ぎ、真っ直ぐ歩けなくなり、8月半ばにはケージから出しても遊ばなくなった。目もほとんど見えない、体も言うことを聞かない、つんのめって頭をぶつけるのでは、怖くて歩けない。ケージの中でも頻繁に転んだ。ただ慣れ親しんだケージの中だから恐怖心は少なく、起き上がってはペレット入れと水入れを行き来して、よく食べ飲んでくれていた。
 9月に入ると、ゆさは転んだ後ひとりで起き上がれないことが増えてきた。都度ケージの上を開いて手を差し入れ、ゆさを起こすのだが、踏ん張りが利かない様子。見れば、ゆさの白濁した瞳がぐるぐると動いている。眼振か。体の衰えだけでなく、平衡感覚を失っているから倒れるのだ。少しでもゆさが楽なようにと夫が入れた木製のブロックに、ゆさはもたれて過ごしていたが、じっとしていても眼振が起こり始めると、おかしな形に体を反らせ、倒れてしまう。
 私が買い物から帰ると、ゆさが横倒しのままになっていたり。夜中にゆさが起き上がろうとジタバタする音が長くなってきた。金属柵とすのこの床で出来たケージは音を大きく響かせる。真夜中に何度も響いてくる音に居たたまれなくなり、9月半ばを過ぎる頃から、私は夜間ゆさに付いていることにした。
 寝室にしている和室と続きの茶の間は、いつも障子を開け放っているからほぼワンルーム状態。茶の間の一角にゆさのケージはあって、就寝時間になるとケージの前に毛布を敷いて眠った。
 酷い時には5分おきに倒れるゆさ。起こしても、手を放すとすぐに倒れてしまうから、私はケージの開けた扉に手を突っ込み、ゆさを支えたまま眠ったりした。そんな夜が続くと、私の眠気が勝って、ゆさが倒れているのにも気づかず、眠り込んでいることもあったりして、とんだ付き添い婦である。
 初めは、この先どうなるのかと不安に思ったが、夜通しゆさの温かな体温に触れているうちに、だんだんと私は夜が楽しみになってきた。体調が悪いゆさにすれば堪らないだろうが。
 この頃には、ゆさはケージに中ですら自由に動けなかったから、水もペレットも私が器を近付けていた。夜の分のペレットと水を補充し、青菜、スライス人参、便を拭く為のウエットティッシュ等をスタンバイして、照明を常夜灯に落とす。だいたい毎日23時半頃の消灯。ひと眠りした午前1時前に、ゆさが倒れる。起こして、青菜や人参を与える。あとはその日の調子次第で1~1時間半おきに倒れ、青菜、人参タイム。
 手を放すとどうしてもゆさが倒れてしまう夜は、眠さに朦朧としながらも私は眠ることを諦めて、午前3時頃から朝まで、ゆさの背をさすり続けた。
 概して薄情な私であるが、以前からマッサージは夫を初め動物たちにも好評だった。慣れ親しんだ私のマッサージに、ゆさは任せきりに気持ちを預けてくれた。
 私はゆさを撫でながら、心の中で自作の子守歌を歌い、毎夜時計を眺めていた。3時から4時になり、外で新聞配達のバイクの音が聞こえてくる。4時半になり、5時を越え、5時半を過ぎ、もうじき今夜も明ける・・・。
 5時45分に夫を起こし、また一日が始まる。ゆさと無事に夜を泳ぎ切り、朝を迎えられたことに、私は目の下のクマを深くしながら、充実感に満たされていた。

ゆさとのお別れ 1

 ゆさがとうとう帰ってしまった。10月28日の朝に。享年13歳と7ヶ月。

 今日でちょうど2週間たった。
 何と言えばいいか分からない。何が書けるか分からないけれど書いてみる。ゆさがくれたものを留めておきたくて。少しずつ、やってみよう。

 ウサギの寿命は8~10年だとか。ゆさは、よく小学校の飼育小屋で見かける、ミニウサギといういわゆる雑種の比較的丈夫な種だ。なぜミニウサギというのだろう?ウサギの中では体の小さい種ではないのに。
 ありがたいことにゆさも、生後3ヶ月くらいで我が家に来て以来ずっと健康でいてくれた。私が身構えていた8,9,10歳の誕生月も難なく越えてくれた。

 そんなだから油断していたのだ。3年前の、10歳5ヶ月のある朝、ゆさが突然発作を起こした。大きな音が聞こえてケージを見ると、ゆさの後ろ足が利いていない、引きずっている。頭も片側へ傾いていて、まともに歩けない、体をまっすぐに起こしていられない様子だ。そして何より、ゆさ自身の動揺がひどかった。いったい何が起こったのかとパニックを起こし、今度はフライパンで爆ぜるポップコーンのように暴れた。数回飛び上がってケージの天井にぶつかったのち、息を荒げ、動悸に体全体を大きく波打たせ、呆然としていた。

 慌てて動物病院を受診。こんな時の為にと買ってあったキャリーケースにバスタオルを敷いて連れ出した、これが、ゆさが我が家へ来て以来初めてで、そして最後の外出になった。

 ウイルスが脳へまわったらしい。抗生物質の投与と、あとは食欲が戻るかどうか。年齢が年齢だけに回復は難しいだろうと私は内心諦めていたが、ゆさは夜には餌を口にし、症状も数日で治まってしまった。

 私は感謝すると同時に、これまでを省みた。拝読していた幾つかのウサギブログの飼い主さんは、どなたもとても大切にお世話をしている。たとえばウサギさんの調子が悪いとなると、コロコロ糞を拾い、数を数えるほどだ。私はゆさに対し、あまりにも最低限でぞんざいだった。

 以後、少しずつ、餌の内容、運動量、ケージ掃除に気を配るようになった。それでも十分とは言い難かったが、ゆさは11, 12, 13歳の誕生月を越えてくれた。

 誕生日、ではなく誕生月というのは、誕生日が分からないからだ。生後間もなく公園に箱に入れて置かれていたのを保護され、持ち主が現れることなく地元の警察署で2か月近く育ち、縁あって我が家に来た。ゆさが保護された経緯の詳しいことを私達は知らない。誕生月にしても、ゆさが来た時の体の大きさからさからの推定でしかない。

 ウサギを飼うのは初めてだった。ウサギに対し、私はあまりいい印象を持っていなかった。小学校にいたウサギは表情に乏しく見え、可愛いと思えなかった。だからウサギを飼おうと夫が言った時、私は嫌がった。が、夫は「もう引き取るって言っちゃった」。
 渋々迎えたウサギは、けれど大らかで天真爛漫で、奇しくも拾われたのが戎神社の総本社のある町だったから、神様の御遣いだと夫と言い合った。今でも思っている。

50歳の、卒業。

 赤十字からの通知が郵便受けにあった。私宛だ。もしやついに、だとしたらマズイかも……封を切らぬまま夫のいる居間へ持って行った。
 17年前に骨髄バンクのドナー登録をした。もっと前から希望していたが、「健康な体に不必要なメスや針を入れて欲しくない」と夫に反対された。当時、移植中の麻酔事故による死亡例を1件だけ耳にしていた。認めてくれたのは、夫の母が末期癌で亡くなった翌年だ。傲慢かもしれないが救える命があるのならと。共にリスクを負うと言い、夫もドナーになった。そして今日まで夫にも私にも適合患者が現れることはなかったが。
「ね、お呼びだったらどうしよう、私もう…」
 駄目だと思うのだ。リウマチ治療のために数年前から生物製剤という特殊な投薬を受けている。私の骨髄液は使えないのでは。せっかくドナーが見つかったと喜ぶ患者さん達をがっかりさせるのか。
 夫の前で恐る恐る開いた中身は、登録延長についてだった。
 私が登録時には50歳までだったが、現在は54歳まで引き上げられている、登録延長可能なら51歳の誕生日までに手続きを、というものだった。
 ほっとした後すぐに、寂しいような気持ちが沸き上がってきた。
 喜ぶべきか残念なのか分からないが、誰の役にも立てなかった。
 ともあれ、ドナー卒業である。

値上がりさえ嬉しいんだキミがいてくれれば

 うさぎの牧草を買いに行ったら値上がりしてた。
 住宅街の只中の、一見それと分からないような小さなうさぎ専門店で、もう13年も買い物をしている。牧草はほぼ2週間に一度のペース。
 いつものようにガラスのサッシ戸を開けて入り、小さい枕サイズのいつもの牧草の袋を差し出すと、店主である60代位のご婦人が、すまなさそうに「実は値上がりしまして…」と語尾を濁した。
「あ、そうか、消費税が上がりましたもんねぇ」
「いえそれが輸送費やら何やらで…」とまたフェードアウト。
 980円→1050円だから、ま、それほど、ねぇ。
 それよりも。
 値上がりという事実を私は嬉しく感じていた。支払いを済ませ、袋を受け取り、店を出たところで、私はしみじみと思った、ああ10余年変わらなかった牧草の値上がりを『ゆさ』と迎えることが出来たんだなぁ、と。
 実は3週間ほど前からうさぎの軽介護生活に入っている。
 『ゆさ』は現在13歳6カ月ほど。うさぎの平均寿命は8~10年といわれる中、ゆさは人に換算すれば100歳近いそうな。生後間もなく公園に捨てられていたのを保護され、縁あってうちへ来た。
 今年の春頃までは多少ジャンプ力が落ちてはいたが、私の周りをくるくると元気に遊びまわっていた。それから少しずつ少しずつ運動量が減り、白内障の白濁で視力が衰え、梅雨の終わりには右足を引きずるようになった。お盆を過ぎると、首と体が右へ傾いて真っ直ぐ歩けなくなった。ケージの中で時計回りをしてはバタンっとひっくり返り、ジタバタもがいて起き上がる。9月の中頃にはひとりで起き上がれないことも出て来た。起き上がっても暫く眼振というか目まいが続き、自分で体を支えられない時間が増えた。
 私はケージへ手を差し入れ、ゆさを立たせるが、ゆさのからだはねじくれて倒れてしまう。そんな状態のゆさに接し、初めのうち私は苛立ちを覚えた。恥を忍んで白状するが本当に私という人間は優しくない。もどかしさ、見てられない辛さから、「しっかり立ちなさいよ」と八つ当たりじみた乱暴なやり方でゆさを起こした。ゆさは踏ん張れず反対側へ倒れ込み、時には餌入れの陶器の器へおでこをぶつけた。それを見て私は慌てておろおろとゆさに謝った。そして思った、私はとんでもない人間だと。
 2週間前からケージの前に毛布を敷いて寝るようになった。幸い今の私は無職で何の問題もない。
 夜中に倒れたゆさを起こし、眼振が収まるまでゆさの体を撫で摩る。すると、少し前まで「夏から急に弱って、もう長くないのかな」とか「こんなに体が不自由なままでいるのは辛いだろう」等と思っていたのに、いつのまにか「このままあと5年は頑張って貰おうか」、そして「たとえ今より体が利かなくなって、自分で餌を食べられなってもいい、何年でもこのままで、とにかく息をしていてくれるだけでいい、ずっと心臓の鼓動を止めないでいて、この世に居続けて」と強く思うようになっている。
 今、ゆさと共に生きていることを実感させてくれる消費税率アップである。

ハイ今日から秋!

 残暑と台風が寄せては返し、いつまでも暑いけれど、季節はやはり進むのだ。
 今日、金木犀の香りがした。
 午後になって買い物に出ようと玄関の扉を開けたら、風の中にふわりと混じっていた。斜向かいのお庭に立派な金木犀の木があって、枝に目を凝らすと、淡いオレンジの粒々が見えた。
 金木犀が香ったら秋。そう決めている。だから今日から秋。毎年9月の25~28日頃に開花する。9月も終わろうとしている。
 今月、父の3回忌が行われた。法事は納骨堂のあるお寺で弟夫婦がすべて準備してくれて、私は数珠を持って行くだけでよかった。
 祭壇に向いお経をあげて下さる住職、その後ろには、真ん中に通路が開けられ、左右に数列のイス席が並ぶ。私の前に弟とその娘が並んで座っていた。
 娘(姪)は今年小学6年生。年に一回会うかどうかなので、私にとってはいつまでも幼稚園くらいの頃のあどけない表情があるのだが、今の彼女は、身長もほぼ私と同じで、私より肩幅が広い、どこのお嬢さんかお姉さんかという感じに成長している。もうじき思春期の難しさが出てきたりするのかもしれないが、今の所はまだまだお父さん子である。
 声を潜めて親子が。
 姪「ねえどれくらい?」
 弟「30分くらいかな」
 暫くして、退屈したのだろう姪が弟の顔を窺う。すると弟は合掌した手に姪の視線を引きつけておいてから、指先をくっつけたまま真ん中を開いていき、ハート型を作った。次の瞬間、姪が弟のわき腹へ肘打ち。
 ああいいなぁ、と思った。子のいない私には眩しく微笑ましくて。
 来年五十になる弟の人生の秋は、これから大いなる実りに満ちていくのだ。