考えるな感じろ、幼子のごとく

 物事は対極の2面性をはらむという。ならば明るいほうを捉えたいものだ。

 

 幼稚園に通う子ども達の作品展を見に出掛けた。昨年に続き2度目である。上手に描こうとか大人ウケを狙うといった邪念がまだない、2~5歳の子ども達の絵や工作がずらり数百点。

 まず保育士さんや指導者が子どもに自由に作品を作らせる。完成後に「これはなあに?」と尋ねる。その時の子どもの答えがタイトルとして書かれる。これが曲者というか、面白いのだ。タイトルと作品がすぐになるほどと納得できる作品は半数以下なのだ。もちろんクジラやワニ、キリンなどそのものズバリな写実派もあるが。

 例えば… 画用紙がピンク一色に塗られた作品のタイトルは『ママとプール行った』。
 プール? なぜこれがプール?? その子が遊びに行ったプールにはピンク色の何か印象に残る遊具か看板でもあったのか。幾つもの作品を見る中で、どうやら子どもは楽しい気持ちを赤やピンクで表し、義務や憂鬱をブルーに塗る傾向があるようだから、このピンクは気分なのか。そもそもプールに行ったのは現実か夢か絵本の話か、TVで観た場面かも不明。もしかしたら発した言葉は絵とは関係ないのかもしれないのだ。

 こんなふうに、作品とタイトルを交互に見ては、脳みそをワシワシと揉まれるような感覚が味わえるのが、この作品展の醍醐味だ。難解なパズル、いや答えなんかないかもしれない。 年端もゆかぬ幼な子に弄ばれながら、大人というものがいかに常識に囚われているかを思い知る。ピンクがどうしてプールなのかと、つい自分の物差しで理解しようと足掻いてしまう。頭はフル稼働、楽しくて、後でどっと疲れる(笑。

 

 真っ白な画面に黒い絵の具で手を広げたような、箒のような線が描かれた作品があった。『羽根が出てきてん。ぴっちゃんがおるみたいで、うれしかったわ』
 ううむ。羽根ということは鳥かな。おるみたい、ということは、いない、のか?
 この答えは、さらに数十点見た後、別の作品で解けることになった。
 青と緑で描かれた鳥に『ぴっちゃん(インコ、と先生が注釈)がしんだ。かなしい』。
 やはり、ぴっちゃんはもうこの世にいないのだ。幼稚園で飼っていたインコなのだろう。がらんとした鳥籠を横目に見ながらどれほどか日が経って、ある日何かの拍子にふわり、ぴっちゃんの羽根を見つけて…。
 先の子は『うれしかった』と。小鳥が死んでしまったことを悲しいと感じるほうが当たり前だろうに、その羽根に在りし日手の中に包んだ小鳥の体温でも蘇らせたのか。喪失ではなく、小鳥がかつて生きていたことに微笑むこの子の感性が、なんて素敵なのだろう、と私はノックアウトされてしまった。