初めての、老眼鏡

 ちょっと、自覚はあった。今年に入ってから、かな。
 ちょっと、手帳に字を書く時のペン先がぼやけるなぁと。それ以外には何の支障もなかったし、針に糸を通すのくらいは多少ぼやけても勘でなんとかなった。

 駄目かも、と思ったのは今年の春。

 私は年に2,3回、夫に写譜を頼まれる。A3の楽譜を、ハガキより一回り大きいくらいのサイズに書き写す。結婚前に設計事務所で図面を描いていた私の細かい書き込みは、夫に信頼されていた。

 それが今年の春、引き受けていざ五線に向かうと、自分のペン先が覚束ない。うわ~やばいなぁと思ったが、目を凝らして書き上げた。
 すると、夫が「キミの写譜にしては珍しく、分かりにくい所が数か所ある。手直し頼める?」と言ってきた。
 冷汗&苦笑い。ついにきたか…?

 老眼。

 私の視力はずっと1.2~1.0だった。子供の頃によく父から「お前は目がいいから、早く老眼になるぞ」と言われ、そんなものかと思っていた。

 それを、5年ほど前に、お隣のSさんから「人は口にすること、思うことの通りになる。コトバには力があるの」ということを教わって、私は「よおし、反対に利用してやる」と考えた。

 その時から「私は老眼にならない」と念じ続けてきたのだった。

 だから自覚症状が現れても、認めるものかと、夫にも誰にも一切話さなかった。

 しかし3日前、また夫に写譜を頼まれた。夫が出勤した後、ひとり机に向い、楽譜を広げ、0.05ミリのペン先を五線の上に、レコードに針を載せる様に運んでみたが、定まらず、下ろすことが出来ない。
 うーーーん……うーーーん……。

 私は兜を脱ぎ、代わりにジャンパーを着て、近所の100円ショップにスク-ターを走らせた。確かあった筈、あんなのでいい、とりあえず写譜だけ、写譜の時だけ…。

 あ~あ。ついに、ついに、老眼鏡を手にした。
 眼鏡をかけて五線を見ると、悲しいくらいにくっきり。これなら手直しを食うこともあるまい。挫折と爽快感の中で、楽譜は仕上がっていった。

 f:id:wabisuketubaki:20180701181351j:plain …ミトメタクナカッタナァ。

 でも。コトバの力。まったく無意味ではなかったと思う。父によれば私は40歳を過ぎたくらいには老眼になると言われていたが、それを49まで遅らせたのだから。それに、まだまだ他の事は大丈夫、新聞も文庫本も読める。もっともっと、これからも。

 帰宅した夫に、笑いながら私は白状し、眼鏡を見せた。夫は”視力悪い”のスペシャリストだ。中学から眼鏡、大学でコンタクトレンズ、視力は0.01か0.02だっけ。
「眼鏡かけたまま遠くを見ると、ほんとにくらぁ~っとなるね」