ちょうどこの時期でした。
ある迷子猫さんの、不可思議で、悲しい、忘れられない出来事です。
2年前の6月半ば、近所の電柱に尋ね猫の張り紙が、そしてうちの郵便受けにも同じものが入っていました。
我が家も元野良の猫と暮らしています。ある日帰って来なくなったらという潜在的な不安は常にあるので、他人事とは思えません。飼い主さんは居ても立ってもいられない筈。いなくなった猫の特徴を把握して、連絡先の書かれたチラシを取り置きました。
次の日、雨の中帰宅した夫が、家からすぐの所で女の人に「猫を見かけませんでしたか」と話しかけられたのです。チラシの子です。傘をさして探し回っておられる様子。
その次の朝、仕事で家を出たところで、女の人に呼び止められました。「猫を見かけませんでしたか」 昨夜夫に声をかけた方でしょう。
何でも臆病な猫ちゃんで、宅急便が届いたのに驚き、玄関扉の隙間から走り出してしまったそうです。極度の人見知りだから誰かに餌を貰っているとも考えらない、と苦しげです。私は見かけたら必ず知らせますと約束して別れました。
1週間ほど後、今度はカラー印刷のチラシが郵便受けに入りました。特徴もより詳しく載っています。まだ見つからないのか…。一層気にかかり、近所を歩く時はキョロキョロ。バス停と家の行き来に、電柱の張り紙を見る度、苦しくなりました。
それからも何度か、猫を探して歩き回っているあの女の人を見かけました。
さらに十日ほどすると又郵便受けにチラシが配られていました。私は夫に「こんなに一生懸命探してる人を見た事がない」と話しました。
実は、私もその頃には強く念じていることがありました。
というのは、真理や理念に精通しておられる隣宅のSさんに”言葉のもつ力”の事を教えて頂いていたのです。言葉には実現力がある、他人を傷つけない正しい祈りは叶う、というような。しかも、「見つかりますように」ではなく、既にそれを受けたりと信ぜよ、「見つかりました、ありがとうございます!」と祈れば良いと。
だから私は暇さえあれば「猫ちゃんが帰ってきました、ありがとうございます」と心の中で唱えていました。私が見つけたい、あの探し回っている女の人に「いましたよ!」と私が電話したい、あの人はどんなに喜ぶだろうか、そんなことばかり強く思っていました。
そうして、電柱の張り紙がなくならないまま、7月も中旬を迎えたある朝です。
その日夫は5時半に家を出なければなりませんでした。小雨が降っていてスクーターも使えず、玄関先へ見送りに出ると、門扉を開けて歩き出そうとした夫が、門扉と横並びの我が家のガレージのシャッター前で立ち尽くし、不思議そうな顔で私へ振り返り、
「…この猫じゃない?」というのです。
私も門を出て見ると、幅4メートルほどのシャッターの向こう端に、猫が寝そべっています。グレーの長毛、緑の目、ふさふさしっぽ、間違いなくあの子です!
ええええええええええ~~~~~~~~~~~っっっっッ
そりゃ、発見を望み、祈り続けていたけれど、こんなことある????
夫にはそのまま出勤して貰い、横たわったままの猫がどこかへ行ってしまわないかと冷や冷やしながら、急いでチラシを取ってきました。
携帯電話の番号は2つありました。一番新しいチラシの番号へ掛けますが、出ない。出ない。ああ、こうしてる間に猫ちゃんがどっか行っちゃったらと気が気でない。朝の5時40分くらいです。あんなに探していたのに出ない。何度も掛け直すも出ない。そぼそぼと霧雨の静かな早朝の住宅街で、途方にくれていました。どうしよう、ここで逃がしたくない、うちにあるキャリーケースに入ってくれないかな、無理かな、でも何としても捕まえたい。
私は名前を呼びながら、少し歩み寄りました。すると猫はささっと立って、隣の家の前の、トンネル状の溝の下へ隠れてしまいました。ああマズイ、これ以上手は出せない。でもみすみす逃してはならない。
私はチラシの別の番号へ掛けました。すると今度は女の人の声、あの人でしょう。なんとあの人はこの早朝に既に近くのバス停辺りで猫を探している最中でした。
すぐに走ってこられ、斜め掛けにしたショルダーバッグから懐中電灯を取り出し、溝へ屈みこんで中を照らし、その姿に「ああっ」と声をあげられました。いなくなってから、ほぼ一ヵ月ぶりの再会でした。
女の人が名前を呼ぶと、猫は「なおう」と返事をしました。私が呼んでも鳴かなかったのに。やっぱり違うんだな。
しかし猫は出てきません。女の人が手を伸ばして届くか届かないかのギリギリの所から猫は出てこようとしません。