オマエにはまだ早い

  この世で縁のある人とは何らかの形で魂を磨き合う関係なのだという。
  2週間前に亡くなった義父に、私は批判的だった。性格が合わない。話が噛み合わかった。それでも、緩やかに老いていく義父と、そろそろ喧嘩しながらでも寄り添っていこうと考えていた。その矢先に、逝ってしまった。ある朝、突然にだ。
  なんというのか、お世話や介護という形の孝行を返す機会を与えて貰えなかった、という気がしている。お前にはそんな善徳を積ませてやらないぞ、と。
  こんな言葉は介護がどれほどのものかを知らないから出るのだろうが、私なりに覚悟を固めようとしていたのだ。
  というのも、義父の母、つまり義祖母は酷かった。嫁いで間もなくから義母を嫁いびり倒した挙句に認知症になり、続いて寝たきりになった。この憎むべき存在を義母は最期まで看取り、義祖母が亡くなった10ヵ月後に結婚した私に、義母は言ったものだ、アナタに面倒を掛けたくないと。
  そしてその通りに、5年間だけ母のいない私の世話を焼けるだけ焼いて、僅か3か月の闘病で逝ってしまった。残った義父のことを心配しながら。
  だから、その時が来たら義父を介護するのは私の当然の務めだとずっと思っていた。
  それなのに。
  車で15分の距離を時々行き来しながら、義父は身の回りの事を自分で調えて一人でのんびり暮らし、その夜も日課の血圧を測ってノートに記録し、布団に入り、そのまま目を覚まさなかった。翌朝いつもと変わらない寝顔の義父を、私はゆすってみたのだが。
  私が苦労しないように義母が連れて行ったとも思えるが、だとしたら余りに甘やかし過ぎではないだろうか。そうではなく、義父自身の徳の高さゆえの安らかな旅立ちで、そこに私は介在させて貰えなかった。オマエには介護なんて到底無理じゃ100年早いわい。そう言われている気がするのだ。
  自らの両親も既になく、子育てもせず、自分のことに精一杯なオマエよ、もうよいわ、今世はオマエにくれてやる、宿題は来世に持ち越しじゃ、その代わりにもっと真剣に謙虚に生きてみよ。