ゆるぎなく

 午前10時に携帯の緊急地震速報がけたたましく鳴った。恐る恐る開いた画面には「これは訓練です」と前置きして、地震発生、津波被害予想に基づく避難指示が。
 とても不快だった。常にもしもに備えることは大切だろうが、よりによって今日、こんなに怖がらせなくとも。いやいや訓練は必要な筈だ。そう自分をなだめた。朝刊の一面を見るまでもなく、今日で23年になるのかと朝からずっと思っている。
 阪神淡路大震災
 私は神戸市内で遭った。まだ結婚する前で、私は京都に住んでいたが、たまたま前夜から夫の実家に泊めて貰っていた。実家のあった町内は屋根の瓦がずれ落ちても家屋が倒壊することはなかった。しかし、ホッとしたのは束の間、電気ガス水道がすべて止まっている。散乱した家具で家の中を進むのも一苦労。
 義母が「可哀想に。京都にいたらこんな不自由はなかったのに」と言ってくれたが、私は、夫と一緒でよかったと心底思った。離れた街で、電話も繋がらず、電車も不通、TVで阪神高速が横倒しになっている映像を見ていたら、もう夫が心配で心配で居ても立ってもいられなかったろう。
 目の前に草臥れていても夫の顔があって、夫は、水が出ず顔が洗えなくてカサカサした顔の私を労わる様に見つめてくれた。私鉄が復旧するまでの3日間、共に暮らせた。あの時思った、一緒にいられるなら何があってもかまわない、と。
 その後まもなく、この震災で学生時代の友人が亡くなった事を知った。復興した町は元通りではなかった。私は翌年の暮れに夫と結婚した。こんなことを言うと、亡き友人のご両親は怒るかもしれないが、生き延びて結婚した私より、友人が不幸だとは思わない。その一生は短かったが、友人が素晴らしい人物であり、どれほどご両親や周りの人に愛されていたか、今も皆が覚えていて、変わらず愛されている。友人は決して不幸ではない、ただ残された私達が辛くて寂しいだけだ。
 揺さぶられる度に大切なものをふるいに掛けられる。けれど、残ろうが零れ落ちようが、もしかしたら問題ではないのかもしれない、何処にいようと何があろうと、自分にとって何が大切なのかを分かってさえいたら。