あのバスに乗ればいい

 明日は百か日。父が亡くなって明日が百日目。
 百か日法要は卒哭忌(そっこくき)とも呼ばれ、この法要をもって残された遺族は「哭(な)くことから卒(しゅっ)する(=終わる)」、つまり悲しみに泣きくれることをやめる日である。…こう書いてると、父が「お前、ちっとも泣かんかったやん」と私にツッコんでる気がする(笑。
 しかしやはり、四十九日とは段階の違う、一つの節目であると感じられる。昨日、父がお世話になった施設へ伺った。3か月が経ち、父の施設での費用の精算と手続きが終わったと連絡を頂いたので、お預けしていた保険証や貯金通帳を受け取る為だ。
 先方の事務手続き可能な平日は夫も弟も仕事、最寄駅からのバスが2時間に1本という立地だから、運転できる義妹が声をかけてくれたが、私は一人で行った。一人で行きたかった。
 本当にこれが最後かもしれないと、バスの車窓を流れる景色を目の中に映し込む。このあいだ来た時は黄金の稲穂がたわわに揺れていたが、紅葉も柿の実もとっくに落ちて、見渡す限り灰色を帯びた、見事な冬の里山である。悲しみとは違うものがこみ上げて、眼球の表面張力に挑んでくるのを、瞼をぐっと、見開いた面積を広げて持ちこたえる。郷愁とは「離れた故郷や過ぎ去った時間を懐かしく思う気持ち」だという。この景色はこれから私に郷愁を抱かせる存在になるのだろう。
 施設のカンファレンスルームで、職員さんから書類と通帳と保険証を受け取った。父は幼子を抱えて職を転々としたので、年金の払込み期間が短く細切れであった為、諦めていたのだが、ここで職員さんが丁寧に調べ、払い込んでいた分を掘り起こし、受給できるようになっていた。ほぼ無一文でここへ来た父の残した通帳には、ちょうど葬儀費用とお墓を建てられるほどの残高があった。そのことがしみじみと思われた。立つ鳥跡を濁さずに逝ける為には、あの世からの助けが要る。紆余曲折の大き過ぎた父だったが、手厚く迎えて貰えたようだ。

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