あした天気になあれ

 今日は雨降り。桜の赤い落ち葉が濡れそぼってアスファルトに貼りついている。昨日までは踏むとぱりりとポテトチップスを噛んだような音が楽しかったのに。
 夏が済んだ途端、来年の手帳が店頭に並び、年賀状やお節の予約承りの文字がそこここに。今年もあと47日とか言われて焦る。とりあえず直近に片付ける用は何だっけとカレンダーの書き込みを確かめる。自分が仕事をしていない今、夫の勤務表で毎日が運航していく。
 今日は何月何日か。父の認知症は軽かったけれど、やはり分からなくなっていた。そのくせ、いや以前にもましてカレンダーに固執していたように思う。数字が黒々と大きなカレンダーを壁に貼る。カレンダーを切り離し、3か月分くらいを横並びに貼っていた。ある時、土日祝を示す赤字が週のど真ん中、平日のところにあるのに気が付いた。ふしぎに思って見つめると、日付を切り取った紙が貼られているではないか。そこだけじゃない、何か所も紙が貼られている。別のカレンダーの日付を切り取って使ったのだ。驚いて私が「曜日が可笑しいじゃない」と言っても、そうかと笑っている。その後もコラージュのようなカレンダーは作られ続けた。
 実はショッキングなことがあった。一時、認知症状が強かった頃だ。白紙に父は自分で数字を書いてカレンダーを作っていたのだが、1カ月が35日まであった。怖かった。父が壊れたと思った。
 80歳前後にもなって、仕事から離れて久しく、施設で穏やかに暮らしていた父になぜカレンダーが要るのかと今になって考えてみる。本来はまず現時点の確認か。そこから先を見通し、予定を立てる為。或いは遡って辿る。とすれば。自分の在りかがあやふやで不安だからこそ、なのか。
 そういえば小学生だった私もカレンダーをよく作った。白紙にサインペンや色鉛筆でグリッドを引き、数字を書く。別に習い事や遊びに行く予定もなかったのに作れば満足だった。これから埋める。何をしようかとわくわくするのは今も変わらないな。あ、じゃ85歳の父も同じだった?f:id:wabisuketubaki:20171114142855p:plain