寂しさには平気でなく強弱があるだけ

 届いてから中二日をおいてようやく手紙を読んだ。
 休みで家にいた夫の傍で、なんとなく寝そべってしまったのは自分自身へさりげなさを装いたかったからだろう。だって近頃は手術した足先を持て余すから腹這いになることがなくなっていたから。
 封筒から抜き出した便せんは薄かった。四つ折りで2枚。そう細かくない文字も透けて見える。この分量で書かれることとはなんだろうと開いてみれば、葬儀に参列できなかったことが日に日に悔やまれており体調も良くなったのでお参りさせてほしい旨だった。
 私は期待していたのだ。弟の見ていた父が私のものと違うように、伯母しか知らない、姉目線で語られる父のエピソードが便せん何枚にもわたって綴られるのを。
 葬儀が済んだばかりの9月末にも伯母から現金書留が届いていた。御香典に便せんが一枚添えられていて、”長い手紙を書こうと思ったが、それより先にこれでお花でも供えて、仏壇を賑やかして欲しい、あの子は寂しがり屋だったから”とあった。
 ”あの子は寂しがり屋だった”
 私には意外な言葉だった。父は、いつもどこかしらひとりで、平気そうだった。そう見えたし、ひとりでいるのには別に慣れている、と父自身で言ったことがあった。
 けれど。
 平気であることと慣れていることとは違うんだ。
 違ったんだ。
 寂しいことに平気な人なんていないのかもしれない。境遇と年月の中で慣れざるを得なくて、比較的寂しさに強くいられるようになるだけ。
 
 今年の春頃から、久しぶりに伯母を訪ねたいと思っていた。父に祖父母のことを訊いても頼りなくて、これはしっかり者の伯母に伺っておかねばと思ったからだった。父が亡くなった日の電話で、この事も伯母に伝えていたのだが、短い手紙にいよいよ思いを強くした。