無精卵を抱く

 4日前、インコが卵を産んでいた。メスだったのね。
 この春、譲り受けたコで性別は分からなかった。紙を好んで細長く噛み切っては尾羽の辺りに差し挟もうとする、この自らを飾り立てる行為から、オスではないかと思っていたのだが。
 ケージの床にころんと転がっている真っ白な卵の、唐突な存在感。サイズは指先ほどで、鶏に比べれば極小だけど、インコの体には大き過ぎる。産みの苦しみを想像せずにはいられない。
 四六時中ではないが、ケージを覗くと、インコは胸の羽毛をふんわりと床に押し広げ、卵を覆い隠している。その姿を見ていると、何とも言えない気持ち……あ、こういうのを”やるせない”というのかな、収まりようのない事実を突きつけられる。
 産んだって、その卵は無精卵だもの、孵らない。
 温めたって無駄なのに、ふっくら蹲っている一心な姿。
 可哀想に思えて、夫と「隙を見て卵を出そう」と言い合うも、取り出したら、卵が無くなったと悲しむかもしれず、それも可哀想で踏み切れない。
 躊躇する私たちをよそに、インコは1日おきに産んで、今ケージの隅には3つの卵が転がっている。増えるにつれて愛着が分散したか、3つだと抱ききれないのか、卵から離れている時間が多くなっている。ほっとするけれど、ほんの少しだけ、それはそれで寂しくもある。勝手だな、外野は。
 これからも時々産むのだろうか。ふと、自分と比べてしまう。子を産まずにきてしまった私。使う事のない子宮。同じ無駄でも、インコの方が偉い。偉いよ、力衣(りぃ、インコの名前です)。産んでも仕方ないとか、温めても仕方がないとか、そんな事を力衣は考えない。自らに備わった力を発揮するだけだ。
 以前から考えていた。産むとか産まないとか産みたいとか、思い煩うのは生き物の中でヒトだけだ。しかも、さも自分の意志で決められる事のように。
 ”授かる”という言葉はそういうことかと今更ながら腑に落ちる。