世界が変わるのに

  知っているのと知らないのとでは全く違うんだなぁ。

 ゆうべTVでドイツの古い町が紹介されていた。普段旅番組は見ないのに少々前のめりで見入った。そこは私が24年前に新婚旅行で、唯一海外旅行で訪れた町だった。現地ガイドさんに連れられて歩いたきりだから、夫に「こんな感じの所あったよね」とか「ここの前歩いたような気がする」とか記憶を掘り起こしながら。

 ドイツを特別知ってる訳ではない。ヨーロッパの歴史ある町並みなんてどこも似ているだろうに、見ていると、あの時の空気・・・季節は冬で一日中気温は零度前後、薄い曇天と淡い陽射し、気まぐれに頬に触れる雪片・・・が蘇る。

 この五感の動きは、たとえば、やはりTVで猫が映った時にも起こる。子どもの頃から幾度となく触れ合った生き物。姿を見ながら、毛の手触りまで感じている。

 感覚だけでなく、感情にも反映する。

 小桜インコの迷子を初めて預かった時。人にはとても慣れているのに、かごの中へ手を入れると、指を血が出るほど強く咬むのだ。心外だ、どうしてだ、この咬み癖のせいで捨てられたのではないかと思ったほど。セキセイインコは飼ったことがあるが様子が違う。とにかく困ったもんだと思っていた。が、その後、『小桜インコの育て方』という本を開くと・・・・小桜インコは別名ラブバード、とても情の深い鳥なのだそうな。特にメスは子育ての場となる自分のハウスが非常に重要で、全力で守る。

 ああ、だから。かごの中で威嚇する小桜インコがいじらしく、いとおしくなった。

 知っているのと知らないのとでは180度変わってくることもある。

 行ったことのない場所や触れたことのないもの、知らない話・・・・五十を過ぎたけど、もっと貪欲になってもいいのよねぇ。どうもモノグサでいけません^^;

繰り返し。それは幸せなことだろう

 本年もよろしくお願いいたします。

 お正月三が日が過ぎようとしている。子もなく、既に親もなく、五十を越えた夫婦二人で、しかし寂しいということはなく、台所に立ち、蒲鉾を切ったり、お煮しめを皿に盛ったりしていると、しみじみと思われてくる、ああ、いいお正月だなぁ、と。

 今までもそうしてきたし、これからもそう。

 三年前に舅が亡くなって以後、もう誰かの為に何かをするお正月ではなくなった。縁起物だからとあまり好きではないゴマメや黒豆、昆布巻きなどに拘らず、夫が比較的好むものでお正月らしいものを用意する。お煮しめクワイ抜き、鰤、ちょっとだけ数の子、紅白蒲鉾、頂き物のロースハム、これに唐揚げなんかを並べる。夫はお餅が嫌いだから、とうとうお雑煮もやめてしまった。

 お正月番組を点けて、食卓で箸を進めながら、つい私は子どもの頃の正月料理のこと、つまり父のことを話してしまっている。

「お父さんがさ、酢の物好きな私の為に蓮根やごぼう、蕪の酢漬けをいっぱい作ってくれてさ」

「棒鱈を甘辛く炊いたの、滅茶苦茶美味しかったんだよ」

白味噌のお雑煮がホワイトシチューみたいにこっくり甘くて美味しかったよ」

 父子家庭で育った私の『お袋の味』は、京都出身の器用な父の手料理だ。正月料理を前にすると、ぽつりぽつりと思い出され、口をついて出てくる。出しながら、この話、去年も一昨年も、いやもっと、正月の度に話していることに気付く。聞かされてる夫は何も言わないけど内心どう思っているのかと、かえって冷や汗ものだ。同じこと何度も何度も言ったりして、私って認知症のおばあちゃんやん、とギクッとなる。これが年を取るってこと?

 年越し蕎麦の残りとお煮しめが昨夜で片付く。今日のごはんは何にしようかとぼんやり考えている。明日は夫の仕事始めでもう日常に戻る。戻っていける日常のあることにホッとする。また一年を始められるんだ。

また一年が過ぎてゆきます

 いよいよ大晦日だねと、夫婦二人で言い合うのは、実感がないからかも。

 互に親も他界し、お蕎麦とお煮しめと鰤、お善哉を用意する位の規模のお正月ですが、穏やかに迎えられることがありがたいです。

 ここでは、愚にもつかぬ呟きを吐かせて頂き、にもかかわらず目を通して下さる方々の温かい眼差しに励まされています。

 いつも本当にありがとうございます。

 これからもよろしくお願い致します。

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楽しかったことなのに泣きたくなる

 懐かしいという感情は、なぜ涙腺に働くのだろう。

 その界隈は生活圏ではないが、時々訪れたことがあった。昔ながらの商店街。幼い頃、両親は時々ここで買い物をした。私の通った高校が近かったから部活帰りに遊びに行った。だから、今回久しぶりに出向くことになって、立ち寄った幾つかの店、一緒に歩いた同級生の顔を思い浮かべていた。

 JRの駅を降りて、まずは地下街を歩いていく。私鉄の駅へと続く、十分弱の長い地下道。前に来たのは何年前だっけ、十年、いやもっとか。さびれた感じは以前からで、それほど変化はない。卓球場が見えてきてはっとする。そうだ、ここには卓球場があったのだ。結婚前に夫と二度ほど卓球をしたことがあった。運動オンチの私だが、卓球だけは父に習って人並みに出来た。今はどうかな、まだ出来るのかな私。卓球場の隣はゲームセンターの筈だけどなくなっていた。器用な夫はあるゲームで私にキャラメルをゲットしてくれた。そういえば一時期よく二人でここに来ていたけど繁華街からは少し離れたここへ、あの頃なぜ足を運んでいたのだろう。今となっては思い出せない。行く宛てなく、ただ二人でいる為に時間を過ごして。

 私鉄駅の改札まで来たら階段を上がる。今度は地上のアーケードのある商店街を少し進む。ここも昔からの商店街だ。さびれた感じもあるが、パチンコ屋さんの前でタバコをふかしている老若男女、落語の寄席の前には呼び込みも立っている。かなりの数を並べた古本屋さんの戸口に色褪せたポスターは往年の海外スター、えっと・・・アランドロン!そうだアランドロンだ!そう、そう、アランドロンがまだ現役で貼られている、というか貼られたまま。そういう街だ、ここは。

 商店街を抜け、大きな公園を芝生に座り込む数十羽の鳩を横目に通って、いよいよ目当ての商店街に辿り着いた。

 その街区は再開発の途中らしく、囲われて入れない箇所もあったが、商店街は過ぎた時間を孕んでそのままの姿を留めていた。学校帰りに覗いた衣料品店、シェイクを飲んだハンバーガーショップ、あの喫茶店でパフェを食べたっけ。少し進んだ横手に、細い上り道があって別の商店街へ繋がっていく筈だったが。

 果たして、あった。でも、上り口の荒物屋はなかった。この店で、私はプラのコップを買ってもらったのだ。幼稚園で必要だった。入園前に両親とここへ買い物に来た。母が亡くなる九ヶ月前だったのだ。ピンク色で、おサルのイラストが描かれたコップ。私はおサルの絵気に入らないと駄々をこねたが、母は聞き入れてくれなかった。達筆の母が油性ペンで名前を書いてくれて、ピンクの毛糸で編んでくれたケースに入れて、一年間使った。

 さらに進むと、乾物や漬物を売る小さな商店が続き、人で賑わっている。父が年末に買い物に来ることがあったっけ。ぼんやりと歩く私の目に、珍しい赤カブの漬物が映る。父の好物だ。居たら喜ぶのに。そういえば、電気屋さんがなくなってる。大学時代に下宿で使ったミニコンポを買ったのはそこだった。

 そういえば小学校時代、お習字教室で仲良くなった友達がこの辺りに住んでて、自宅からは遠いここまで父が車で連れてきてくれたことがあったな。一時の付き合いだったが名前は確か・・・本間さん。肌が黒くてハーフっぽい、かっこいい顔立ち。

 中学生の頃に商店街の外れで父と待ち合わせをした時期があった。小さなペットショップがあって、そこで文鳥の雛を眺めて待っていた。へんなおじさんに声をかけられて逃げ出したことも。父が車を停めて現れると、向かいのお蕎麦屋さんに入るのだ。天ぷら蕎麦を食べる父。私は月見とろろ。

 次から次へと去来する記憶に胸がずきずき、眼球がじりじりしてきた。ちょうど用件の時間になったので、散策を打ち切り、感情を打ち切った。用件の後は逃げるようにその街を離れて帰途に着いた。

 夜、帰宅した夫に話した。

「なんでかなぁ、楽しい思い出なのに泣きたくなるなんて」

「いや分かるよ、胸が苦しくなるんだ」

 夫は小学六年生の時に転校していた。大学時代にかつて自分が住んだ町へ一人で行ってみた事があるがなんだか面白くなかった、と話してくれた。

「そういう場所にはね、一人で行っちゃ駄目なんだ。ここでどうした、あそこはこうだった、と話しながら行かないと辛くなるんだ。今度は一緒に行こう」

 行こう、今度はあなたが育った町にも。

微塵の躊躇もいらないのね

 今年は空や街路樹、道脇の草花の鮮やかさにハッとすることが多かった気がする。外出を控えたり、マスク着用で視野を狭くしているからだろうか、ふと目に留まる美しさが心に沁み入ってくる。

 紅葉の季節を迎えている。モミジの赤、イチョウの黄はもちろんだが、この数年、私は桜の落葉が楽しい。エンジ色の大きめの葉が落ちて、桜並木に降り積もった葉は、通りかかり、踏むと、ぱりり、とポテトチップみたいな乾いた音を立てる。乾いた、清々しい音だと思う。

 バスを降り、傾き始めた柔らかい日差しの中を歩いていて、もしやと、今まさに通り過ぎようとしている桜の枝を注視する。

 あ。やっぱり。米粒くらいの蕾がもうあった。

 数年前のお正月に見つけたのだが、むき出しの枝のそこここに小さいながらしっかりとした蕾があるのに気付いて、驚いた。今は12月だが、もう蕾がついていた。一体何時から準備は始まっているのだろう。まだ葉を落としたばかりなのに、春へ歩みだしている。

 私は何でもひと区切りとばかり終わりを意識しがちだけれど、自然界は常に次のステージへ進むこと、始まりしかないのかもしれない。