ゆさとのお別れ 5

 胸の上にゆさを載せたままでコーヒーを飲んだ。
「ゆさ、ふしぎだねぇ、こんなに悲しくてもコーヒーはおいしいよ」
 昔読んだ少女漫画を思い出した。主人公の女子高生が嘆くのだ、あたしってば失恋してもおなかが空くんだなぁって。
 ゆさの心臓の鼓動が止まってこの世からいなくなってしまったら・・・亡くなる半月ほど前、ふいにそう想像してしまい、震え上がったことがあった。ゆさがいなくなるなんて考えられない、耐えられない、と。
 けれど実際にゆさがいなくなったその夜から、私はいつもどおりご飯を作り、食べられて、今まで通りに生活していくのだなぁ。
 夫に、ずいぶん迷った挙句11時半頃にラインで知らせた。ゆさの具合が悪くなってから夫は毎朝「ゆさを頼むな」と言って出勤し、日中も気にかけていた。そんな夫に、仕事中に辛いことを知らせれば、退社するまでの長く苦しい時間が・・・と思った。が、夜になって、ゆさが既にとっくに息を引き取っていたと知るのは、私ならば嫌だ。一刻も早く知りたい、たとえすぐに駆けつけられなくても、分かっていたい。そう思って送った。
 帰宅した夫に、私は「食欲ある?」と訊くと、
「食べるよ、さあご飯食べよう! 帰りにあの美味しいチーズケーキ買って帰ろうとしたら売り切れだった」と言った。
 え、ケーキ?
「うん、いつも通り食べるぞって思ったんだ」
 続けて夫が言った。
「不思議だ、すごくショックな筈なのに、ゆさが悲しみをやわらげる麻酔でもかけたんだ、”ほらね、ぼくがいなくなってもだいじょうぶでしょ”って」
 ああそうなのか。そうかもしれない。確かに、頭が変になりはしないかと恐れていたのに、私はわりと落ち着いていて、静かに澄んだ湖のようなさみしさが満ちていた。
「私は、こんなに悲しい辛いといえるほどゆさを大事にしてこなかったから嘆く資格もないし、後ろめたくて誤らなければいけないこといっぱいあるんだけど、今更謝る気もなくて、ただただ、会いたいよ・・・」
 もう叶わないんだなぁ・・・。

 夫とあれこれ考えて、翌日の朝、庭に葬った。小雨の降る中、夫がシャベルで深く美しい穴を掘った。濡れた土は軟らかく、夫を助けた。急いで葬ったのには訳がある。死臭がひどかったのだ。
 朝に亡くなって、午後3時には少し匂った。真夏でもなし、10月末にこうも早いものかと首を傾げた。そして翌朝には部屋や廊下中に強く匂った。この上なくかわいい姿、寝顔を横たえているのに、この小さな体、美しい魂の持ち主から、こうも酷い匂いがするものか。
 それはゆさが私たちに、執着させない為、早く自分の体を手放すように仕向けたかのように不自然だった。実際、もし匂いがしなければ、私は3日間くらいは抱き続けただろう、これまでに小鳥が死んだ時にそうしたように。
 魂が去った今、肉体は物質でしかないのだと、ゆさが教えているようだった。

ゆさとのお別れ 4

 亡くなる前日の朝には、ペレットどころか軟らかい青菜も食べないし、水も飲まないし、怖くなった。このまま何も食べないならば、動物病院へ点滴に行かねば。果物なら口も変わるし、カロリーも高めだし・・・祈るような気持ちでゆさの口元へ運ぶとしゃくしゃくと食べたので、胸を撫で下ろした。しかし量が少ない上に、夜になると又食べなくなった。
 もう猶予がない、次に打てる手は・・・毎日動物病院へ通うのはゆさにとって体力的負担とストレスになるだろう。食事さえ摂ってくれれば。そこで強制給餌を決めた。明日から始めよう。
 それまでは、ゆさをエージの中で横たえてしまわず、少しでも体を使って自分を支えたるよう、木のブロックにもたれさせていた。しかし食事や水分摂取が十分でなく、この夜はさすがにぐんなりと力の入らないゆさを、私は抱えて眠ることにした。ケージの横に座椅子を置き、おなかの上にゆさを抱えて一晩を過ごした。時々駄目もとで菜っ葉やフルーツ、人参を口元に運んでみたが、やはり駄目だった。おなかが空いているらしく、齧りかけるも、あごの力がないのか、うさぎに時として起こる歯のかみ合わせの不具合かもしれない、かわいそうに。
 ゆさをおなかに載せて過ごした長い夜は幸せなものだった。
 そうして夜が明けて、私はこの朝一番にまず獣医さんに点滴をお願いしようと考えていた。そして強制給餌に踏み切る。自分で食べるうちはと思っていたが、遅すぎたかもしれない。とにかく、ゆさ、今日からまた新たな挑戦だぞ。
 ケージにゆさを横たえ、夫を送り出し、家の中を片付けて、8時を回った。動物病院は9時半から診察だから、9時前に受付をすれば1番か2番で診てもらえる。早めに行こう。病院まではスクーターで10分弱だから・・・ケージにバスタオルを敷きこみ、診察券などを用意し、さあゆさ、行くぞ、とケージへ手を伸ばしゆさを抱えて、私はがくがくした。体が硬い、声をかけても反応がない! うそっ まさかもう亡くなってしまっているの!? ゆさのおなかに耳を当てるも、音が分からない、ややして聞こえる微かな動悸が、ゆさのものなのか私のものなのかも分からない。もう混乱してしまって、獣医さんなら蘇生させて貰えるのか、それとも無理なのか、今まだ息があったとして、スクーターで走っている間に息を引き取ってしまったら、あまりにかわいそうだ。迷い、考え、バスタオルにゆさをくるんでかばんを掴み、私は外へ出た。近くのバス停に、タクシーが止まっていたらタクシーで行こう、そうすればゆさに寄り添っていられる。しかしタクシーはいない。ああこんなもたもたしている間にも。やはり自分で連れて行こうとすぐに家に引き返し、スクーターの鍵をつかんだものの、ゆさを抱えて上がり框に座り込んでしまった。
 ゆさのおなかに何度も耳を当てるが、まだ息があるかどうかも分からない。こんなに瀕死では獣医さんでも無理か、いやそもそも高齢で衰弱したうさぎを延命治療してくれるだろうか・・・。
 静かに送ってやろうと決めた。茶の間に入り、座椅子で、ゆさを胸の上に抱いて泣いた。きっとゆさは8時ごろには息を引き取っていたのだろう。そうと分かっていれば、出かけ支度なんかせずに抱き続けていればよかった。
 途中で台所に立ったりしながらも、午後3時くらいまでそうしてゆさを胸に載せていた。

ゆさとのお別れ 3

 昼間は家事や自分のしたいことをしながら、ゆさが倒れていないか確認した。自分でえさが食べられないこともあり、長時間留守には出来なかったが、スーパーへ買い物には出かけた。ゆさに与える青菜の仕入れも重要だった。
 好んで口にしたのは、水菜や小松菜、キャベツ、ごくたまに手に入れば大根葉やブロッコリーに僅かに付いている葉っぱ。食べるものは割と限られていて、どんなに大好物だろうと、同じものが続くと飽きる(笑。主に安定して手に入る小松菜と水菜を交互に与えた。青々とした緑の葉の部分をゆさにあげるから、茎ばかり残るのを夕食に供する。炒めたり、煮たり・・・茎だけだとシャコシャコと意外に硬さを感じたが、夫も私もゆさの為なら何でもないことだった。
 食欲のあるうちは大丈夫、食べなくなったら終わり。そう思っていたから、何かの具合でゆさが食べないと、とたんに私は塩をかけられたナメクジのようにへなへなオロオロとなった。
 ありがたいことに、ゆさは動けなくなってからも食欲はあって、とにかく食べてくれていればひと安心。ただ、徐々に徐々に食べる量が減ってきているのを認めざるをえなかった。食べ方も、少し前までは大きい葉っぱをそのまま何枚もわしわしと齧って平らげていたのが、勢いが減り、葉脈に手こずりだし、小さくちぎってやらなければならなくなった。人参も、厚い輪切りに噛り付いていたのが、薄いスライスになり、そのスライスを千切りにしないといけなくなった。
 動けないから筋肉が落ち、摂取エネルギーも減り、ゆさの体は骨ばって痩せていた。そのか弱くなった体を持ち上げる時、私は痛々しさと同時に愛しさを感じた。ぬいぐるみのように、いやぬいぐるみよりももっとずっと愛くるしい存在。

 回復が見込めなくても、このままでもいい、居て欲しい、もうしばらく居てくれそうだ。この頼りないながら、柔らかで優しい生き物の呼吸が、鼓動が止まるなんて、考えられない。たとえ意識がなくなっても、心臓が動いていてくれさえすればいい。私は、これまで末期の延命治療について、自分も家族にも無意味だと考えてきたが、生まれて初めて、延命治療を望む家族の気持ちが分かった。どうしても、ゆさにこの世に居続けて欲しかった。

ゆさとのお別れ 2

 3年前のゆさのウイルス発作以降は、神様が与えてくれたロスタイム・・・近頃はアディショナルタイムというようにサッカー中継で変わっていたっけ、とにかくそのオマケみたいな時間だろう。

 人生の目的のひとつを「愛情を学ぶこと」だと私はこの数年考えるようになった。
 普段から愛情深く甲斐甲斐しい人(夫の母がそう。本当に献身的な人だった)にはクリア出来てしまっていて、意識する必要もないだろうが、私にとっては大きな課題だと気づいたのだ。
 多くの人が、親から受けた愛情をエネルギーにして人生を開き進み、周りの人々と縁を築き、我が子を持てば愛情を注ぎ、老いてゆく親を看取る。この経緯を通じて生涯の学びを得る。ところが私ときたら、子を生まず育てず、親の介護からも免れてしまった。
 そんな私に与えられたせめてものレッスンの機会が、動物や植物、生き物との関わりだと思えてきた。
 子ども時分から動物好きの父親の影響で生き物が身近にいた。だから自分のことを、動物好きで生き物に親しいと思っていたが、あらためて省みると、決して生き物好きとは言えなかった。面倒くさがり屋で亀の水槽の水換えや小鳥のケージ掃除を怠るし、接し方が身勝手だ。言うことをきいてくれないとイライラする。

 3年前のあの時あのままゆさが死んでしまっていたら、私は後悔すら出来なかったかもしれない。
 この3年間にしても、純真無垢なゆさに誠実に答えられたわけではない。ゆさの悪気ない、遊びの延長のひと噛みに「痛い」と本気で腹を立てたし、ネットサーフィンをだらだらしていて部屋んぽの時間を飛ばしてしまったり。こういう時、猫や鳥と違って鳴かない生き物は損である。私はつくづく未熟な人間。可哀想なことばかりしてきた。

 13歳になった今年の春はまだ、加齢による白内障で黒目が白く濁り、ジャンプ力こそ落ちてきていたものの、ケージから出せば変わりなく私の周りを駆けて遊んだ。この分なら14歳、15歳までも大丈夫ではないかと頼もしかった。
 急激に衰えを見せ始めたのは7月半ばだった。・・・左の後ろ足は以前から引きずり気味だったが、今度は右の前足を踏ん張れないようで、つんのめって転び始めた。日に日に転ぶ回数が増えた。頭も右へ傾ぎ、真っ直ぐ歩けなくなり、8月半ばにはケージから出しても遊ばなくなった。目もほとんど見えない、体も言うことを聞かない、つんのめって頭をぶつけるのでは、怖くて歩けない。ケージの中でも頻繁に転んだ。ただ慣れ親しんだケージの中だから恐怖心は少なく、起き上がってはペレット入れと水入れを行き来して、よく食べ飲んでくれていた。
 9月に入ると、ゆさは転んだ後ひとりで起き上がれないことが増えてきた。都度ケージの上を開いて手を差し入れ、ゆさを起こすのだが、踏ん張りが利かない様子。見れば、ゆさの白濁した瞳がぐるぐると動いている。眼振か。体の衰えだけでなく、平衡感覚を失っているから倒れるのだ。少しでもゆさが楽なようにと夫が入れた木製のブロックに、ゆさはもたれて過ごしていたが、じっとしていても眼振が起こり始めると、おかしな形に体を反らせ、倒れてしまう。
 私が買い物から帰ると、ゆさが横倒しのままになっていたり。夜中にゆさが起き上がろうとジタバタする音が長くなってきた。金属柵とすのこの床で出来たケージは音を大きく響かせる。真夜中に何度も響いてくる音に居たたまれなくなり、9月半ばを過ぎる頃から、私は夜間ゆさに付いていることにした。
 寝室にしている和室と続きの茶の間は、いつも障子を開け放っているからほぼワンルーム状態。茶の間の一角にゆさのケージはあって、就寝時間になるとケージの前に毛布を敷いて眠った。
 酷い時には5分おきに倒れるゆさ。起こしても、手を放すとすぐに倒れてしまうから、私はケージの開けた扉に手を突っ込み、ゆさを支えたまま眠ったりした。そんな夜が続くと、私の眠気が勝って、ゆさが倒れているのにも気づかず、眠り込んでいることもあったりして、とんだ付き添い婦である。
 初めは、この先どうなるのかと不安に思ったが、夜通しゆさの温かな体温に触れているうちに、だんだんと私は夜が楽しみになってきた。体調が悪いゆさにすれば堪らないだろうが。
 この頃には、ゆさはケージに中ですら自由に動けなかったから、水もペレットも私が器を近付けていた。夜の分のペレットと水を補充し、青菜、スライス人参、便を拭く為のウエットティッシュ等をスタンバイして、照明を常夜灯に落とす。だいたい毎日23時半頃の消灯。ひと眠りした午前1時前に、ゆさが倒れる。起こして、青菜や人参を与える。あとはその日の調子次第で1~1時間半おきに倒れ、青菜、人参タイム。
 手を放すとどうしてもゆさが倒れてしまう夜は、眠さに朦朧としながらも私は眠ることを諦めて、午前3時頃から朝まで、ゆさの背をさすり続けた。
 概して薄情な私であるが、以前からマッサージは夫を初め動物たちにも好評だった。慣れ親しんだ私のマッサージに、ゆさは任せきりに気持ちを預けてくれた。
 私はゆさを撫でながら、心の中で自作の子守歌を歌い、毎夜時計を眺めていた。3時から4時になり、外で新聞配達のバイクの音が聞こえてくる。4時半になり、5時を越え、5時半を過ぎ、もうじき今夜も明ける・・・。
 5時45分に夫を起こし、また一日が始まる。ゆさと無事に夜を泳ぎ切り、朝を迎えられたことに、私は目の下のクマを深くしながら、充実感に満たされていた。

ゆさとのお別れ 1

 ゆさがとうとう帰ってしまった。10月28日の朝に。享年13歳と7ヶ月。

 今日でちょうど2週間たった。
 何と言えばいいか分からない。何が書けるか分からないけれど書いてみる。ゆさがくれたものを留めておきたくて。少しずつ、やってみよう。

 ウサギの寿命は8~10年だとか。ゆさは、よく小学校の飼育小屋で見かける、ミニウサギといういわゆる雑種の比較的丈夫な種だ。なぜミニウサギというのだろう?ウサギの中では体の小さい種ではないのに。
 ありがたいことにゆさも、生後3ヶ月くらいで我が家に来て以来ずっと健康でいてくれた。私が身構えていた8,9,10歳の誕生月も難なく越えてくれた。

 そんなだから油断していたのだ。3年前の、10歳5ヶ月のある朝、ゆさが突然発作を起こした。大きな音が聞こえてケージを見ると、ゆさの後ろ足が利いていない、引きずっている。頭も片側へ傾いていて、まともに歩けない、体をまっすぐに起こしていられない様子だ。そして何より、ゆさ自身の動揺がひどかった。いったい何が起こったのかとパニックを起こし、今度はフライパンで爆ぜるポップコーンのように暴れた。数回飛び上がってケージの天井にぶつかったのち、息を荒げ、動悸に体全体を大きく波打たせ、呆然としていた。

 慌てて動物病院を受診。こんな時の為にと買ってあったキャリーケースにバスタオルを敷いて連れ出した、これが、ゆさが我が家へ来て以来初めてで、そして最後の外出になった。

 ウイルスが脳へまわったらしい。抗生物質の投与と、あとは食欲が戻るかどうか。年齢が年齢だけに回復は難しいだろうと私は内心諦めていたが、ゆさは夜には餌を口にし、症状も数日で治まってしまった。

 私は感謝すると同時に、これまでを省みた。拝読していた幾つかのウサギブログの飼い主さんは、どなたもとても大切にお世話をしている。たとえばウサギさんの調子が悪いとなると、コロコロ糞を拾い、数を数えるほどだ。私はゆさに対し、あまりにも最低限でぞんざいだった。

 以後、少しずつ、餌の内容、運動量、ケージ掃除に気を配るようになった。それでも十分とは言い難かったが、ゆさは11, 12, 13歳の誕生月を越えてくれた。

 誕生日、ではなく誕生月というのは、誕生日が分からないからだ。生後間もなく公園に箱に入れて置かれていたのを保護され、持ち主が現れることなく地元の警察署で2か月近く育ち、縁あって我が家に来た。ゆさが保護された経緯の詳しいことを私達は知らない。誕生月にしても、ゆさが来た時の体の大きさからさからの推定でしかない。

 ウサギを飼うのは初めてだった。ウサギに対し、私はあまりいい印象を持っていなかった。小学校にいたウサギは表情に乏しく見え、可愛いと思えなかった。だからウサギを飼おうと夫が言った時、私は嫌がった。が、夫は「もう引き取るって言っちゃった」。
 渋々迎えたウサギは、けれど大らかで天真爛漫で、奇しくも拾われたのが戎神社の総本社のある町だったから、神様の御遣いだと夫と言い合った。今でも思っている。