<私の浄心行-9>

<只今セルフ心理療法中です、読むと重たいと思うので遠慮なくスルーして下さいね>

 今が幸せなのだから、本来、意識の底で眠らせておけばよい負の記憶。掘り起こすのにもエネルギーが要ると思い知る。書いていて重い。しかし囚われている以上、私には必要な作業だったと思う。この度お付き合い下さり、読んで下さっている方には申し訳ないけれど、その存在に励まされました。
 細々したものは幾らでもあってキリがない。ごろごろと転がっている中から目に付いた大きい塊をこのひと月の間取り出してきた。あとは…と広がる記憶の原っぱを見渡す。ここへきて、もう気が済んだでしょ、もういいんじゃないの、という思いが湧いてきているが、ここまでやったんだから出してしまいなさいよと言う自分もいて。
 あと辛かったのは、高校一年の学期末。
 父の仕事の不安定さは相変わらずで、だから経済状態も相変わらずだった。私は高校まで電車通学で一か月の定期券代が5000円程。それが手元になくて、確か3日ほど学校を休んだ。ようやく数百円を得て私は切符で学校へ行った。どうしても行きたかったのは吹奏楽部の練習だった。我が部は数年ごとにコンクールの全国大会へ進出する強豪校で、部員皆が勉強そっちのけで練習する。父は私に「そこまで一生懸命に打ち込めるもの、時間があるのは学生時代の今だけだ、成績がどうなろうと構わないから思い切りやれ」と認めてくれていて、ありがたく部活に励んでいた。
 さて3日ぶりの学校、授業が終わると部室へ飛んで行った。ところが部室の前で同級生が私に今すぐ帰れと言うのだ。病み上がりだろう、無理するなと。実は体調不良だと言って学校を休んでいたのだ。もう治ったと私が言っても、友達は心底心配してくれて、今日もう一日だけ体を休めろと言って引かない。しかし私だってなけなしの数百円を握りしめ、ようやく学校へ来られたのだ無駄にしたくなくて食い下がる。すると友達は上級生の部長を呼んできて私に部長命令を下させた。…帰るしかなくなった。温かい眼差しで見送る友達に、私は「何も分からないくせに…」と言わずにいられなかった。友達は「あんたは何でも一人で抱え込もうとする、悪い癖だよ」。言えないよこんな事、恥ずかしいし、言ってもどうにもならないし。
 さらに次の日、部活にも行けずにいると、玄関の呼び鈴が鳴った。そっと外を窺うと、なんと、部の先輩が、お母様らしき人と並んで立っているではないか。普段から気さくで面倒見のいい先輩だった。私が体調不良で休んだまま、電話も繋がらず(料金滞納で止まっていた)、案じてお見舞いに来てくれたのだろう。しかし仮病だし、家の中は猫がうろつき荒れ放題に散らかって、何よりも昼間からビールを飲んでいる無職の父がいた。扉を開けて出ていくことなどできず、息を殺していた。数分後、浮かない顔で先輩は帰っていった。その姿を窓のレースのカーテン越しに見届けた。
 結局1週間くらい休んだだろうか。
 部活に関しては、演奏会用の革靴を持っていなくて、合皮の1980円のローファーで十分なのにそれが買えなくて、苦しい言い訳をして友達に借りたりと、度々細々焦ることがあった。よく辞めずに3年生まで続けたものだ。
 夫とは中学時代同じ吹奏楽部だった。高校は別になったけれど、コンクールの会場では見かけたし、時々帰りの電車が一緒になった。
 去年父が亡くなってから、あの頃実はこんな状態だったの、と定期券や靴のことを初めて話すことが出来た。夫は態度や表情を変えることなく、「俺、そんな思いをしたことないから何て言っていいか分からんけど、それは辛いなぁ」と言った。「そんなん知ってたら、俺のお袋が黙っていなかったな。食べ物でも着るものでも、ほらあの通りの性格だから、うちへ呼んでぜ~んぶキミに揃えてあげて」「お義母さんらしいわ~」「うちへ来ればよかったのに」
 うん、でも思春期の私にはとてもとても口に出来なかったよ、アナタには中学時代片想いしてたし。それに今はアナタにチョコレートもアイスクリームも買って貰ってる。これってなんかすごいことだ。