私のお父さん (2

 大学生の時かな、私は父に言った。
「うちは大学の教授位のインテリの家だと思っていたけど」
「ああ、そうだよ」
「でも、お父さんもお母さんも高卒だし、お父さんは普通のサラリーマンで仕事もそんな学校の成績が要るようなものじゃないし、職場を転々としてるし」
 父は言葉を詰まらせた。
 私は何も嫌味で言ったのではない。素直な感想だった。はたと気付いて驚いたのだ。
 大学生になるまで気付かないほど、父は勉強にうるさかった。
 スパルタ教育なんてもう死語だな。母が亡くなったのが小学校へ入学する3か月前だったが、その頃から、幼稚園から帰ると、机に向い、絵本の音読・漢字の書き取り・算数の計算をしなければならなかった。私の傍らに父は竹の物差しを持って立ち、私がモタつくと叱責し、それでも駄目ならピシャリとやる。その日の課題をすんなり出来れば1時間ほどで終わるが、一度どうしても私が2ケタの引き算が出来なくて、ようやく解けた時には日が暮れかけていた。もう遊びに行くことも出来ないと突っ伏して泣いた机は特注品だった。
 大人になるまで使えるようにと、父と生前の母が決めていた、木製の極めてシンプルな机。同級生達のキャラクター付きで書棚や抽斗のついた学習机が羨ましかった。
 父も母も大学にこそ行っていないが成績は良かったらしい。
「父さんが子供の頃はなぁ…」
 昭和7年生まれの父の小学校時代の話。なんでも父は勉強が出来過ぎて公立の小学校を追い出されたという。ほんとかよ(笑)な父の話を以下そのままに。文責ご容赦を。
 戦前で、体罰当たり前の時代。教室で2人ずつ机をくっつけて並べ、真ん中に金槌がおいてある。先生が問題を出す。早く解けたほうが手を上げる。正解すると金槌で隣の子の頭を叩く。父の隣は殴られてばかりで大怪我をする。とうとう担任が、師範学校(今の教育大学)付属小学校へ転校した。
 するとそこへ通う同級生たちは医者や弁護士やお金持ちの家の子。学校帰りに遊びに行くと、ばあやが玄関で「ぼっちゃんお帰り」と迎え、三時のお八つにショートケーキが出る。物のない時代である。比べて自分を家で待っているのはばあやならぬ本物の祖母で、お八つはふかし芋。
 父は、生後間もなくに母親が亡くなり、母方の祖父母に引き取られた。父親はよその町へ行って再婚したと、この事を話す父は腹立たしげだった。
「うちみたいに貧乏な家の子なんかおらんかったから嫌やった」
 大学へ行かなかったのは父親に金銭的な世話になりたくなかったからだと言う。
 父親に見捨てられたと思っていたせいか、父自身が同様に妻に死なれ、幼子を残され、本当は誰か助けてくれと思いながら、独り意地になる事を余儀なくされたのだ。
 その意地が「人に負けるな」という口癖となって私や弟に注がれた。
 テストは90点以上でないと叱られた。99点を取った時に私が得意げに差し出したところ、父はその答案をビリビリに破いた。
「僅かあと1点が取れん事を恥と思え、こんなんなら0点のほうがマシや!!」
 始終この調子。それでもお父さん子の私は褒められたくてなんとか食らいついた。
 2つ下の弟が幼稚園へ上がる頃に父は仕事復帰し、付きっきりで勉強をさせることは無くなったが、成績のことではずっと叱られていた。
 それが、私が希望通りの高校へ合格した時に、初めて「お前は親孝行したね」と褒めてくれ、以来一切勉強のことを言わなくなった。それが父のどういうケジメだったのかは分からない。