歌わないで今は

 冷蔵庫の中にいるみたいな日が続いている。出掛けるのが億劫で月イチの通院を延ばしていたが、今日こそ行かねば。タートルネックセーターとロングスカートと厚手のレギンスを抱えて向かったのは石油ファンヒーターの前である。いやもうここでないと部屋着を脱ぐ勇気が出なくて、夫の居ないのをこれ幸いと、おっと猫はいた、ヒーター前に陣取っていた猫には迷惑そうに見上げられたけれど。
 レギンスに足を通しかけると、ヒーターが電子メロディを奏でだした。3時間延長運転を問う『ラブ・ミー・テンダー』だ。給油を知らせる時は『キラキラ星』が鳴る。
 このヒーターに買い替えて早や10年ほどになるか。前のが黒煙を吐くようになって、慌てて電気屋さんへ走った。このヒーターがいい、と言ったのは私だ。前のは「ピーピーピー」と無機質な電子音が鳴った。夫に向かって「給油を知らせるにしてもさ、無愛想にピーピー言われるよりは、キラキラ星のほうが和むじゃないの」と。
 しかし使い始めてすぐに後悔することとなった。日常生活の中で唐突に流れ出す『ラブ・ミー・テンダー』。ピーピー音なら愛想がないだけに聞こえてきても気持ちの上で捨て置けたが、メロディーはそうは行かなかった。心に響いてきて、それまでの作業や思考に割り込んでくる。止めるまで頭は鼻歌を余儀なくされ、音を止めても頭は続きを歌い、しばし余韻に掴まったままだ。『キラキラ星』は灯油が残り少なくなると、まず「ドドソソララソ、ファファミミレレド」を2回繰り返して一旦止む。その後15分程は運転を続けられるが、いよいよ灯油切れの際は倍速の「ドドソソララソ、ファファミミレレド」で急き立ててくる。
 一定の電子音と違い、意味と含みを持つものの、心へ訴えかけてくる力のなんと強いことか。聞いても心揺れなくなるまでに数年かかった。偉大なるかな、音楽の力。