変わらない

 父が亡くなってまだ5日だというのに私の日常は以前と変わりなく流れている。これは表面的なもので、深層で起こった変化に例えばひと月くらい経って気付いたりするのだろうか。
 あの朝、施設へ駆けつけ、職員さんに連れられて、父の部屋の前まで来た。コンパクトな個室である。促され、扉を開けると、左の壁側に寄せたベッドが見える。父は枕を奥に寝ている。右の目が微かに開いてこちらを向いている。顔色もいつもと変わらない。なんだ寝てるだけじゃない、死んだなんて嘘だったんだ、と本当にそう思った。しかし近付いていって傍に立っても、父は全く反応しない。そこで考える、そうだよね死んだなんて嘘の電話を職員さんが掛ける筈ないもの。やっぱりもう死んでしまっているのだ。そして改めて父の顔を見下ろす。しげしげと見つめる。いやまだ生きているように見える。だから、自分と父とに言い聞かせる為に手を伸ばし、父の右の瞼を閉じさせた状態で暫くの間押さえた。TVドラマや映画なんかでよく亡くなった人の瞼をそっと指先で撫でるように覆って閉じさせるシーンがあるけれど、あれって嘘だ、ちょっと下ろしただけではすぐに元通り開いてしまうんだから。経験済みで知っている、姑が亡くなった時と、それからあと誰の時だったか。
 もう開くことのないように父の瞼に指先を残したまま声をかけた。「ねんねやで」子供の頃、夜遅くなっても眠れない私に父が掛けた言葉だ。そう口にして、さすがに私の目の中がじわっと潤んできたその時に、職員さんが入ってこられたので、止まってしまった。そんなことで止められる程度の泣きしか起こらなかった。
 子供の頃から人の死というものに斜に構えたようなところがある。頑なに、「人が死んでも泣くもんか」と思っている。物心ついて間もなくに母が亡くなって、死を身近なものとして生きてきた。誰にでもある日訪れるもの。特別なことではない。残される者の悲しみ寂しさは泣いて晴れるものではない。本当に悲しい時ショックな時には涙なんか出ないんじゃないか。泣かないことが私の哀悼の表れ。そう思って生きてきた。だけど、私は、泣かないんじゃなくて、泣けなくなっているのかもしれない。一昨年の秋に、8年飼ったインコが亡くなった時はわんわん泣いたのに。どういうことなのだろう。分からない。今は、自分の中に何か変化があるかを観察している。