サイアクの迷惑女

 時計をよく読み間違う、と前々回書いたが、実は…とんでもない失敗をしたことがある。もう27年も前のことなのに、思い出す度「あーっ」と声がでちゃうほどの。

 夫とは大学4回生の春から付き合い始めた。超まじめ学生の夫は普段の授業と空手サークルに加え、教員免許取得の為のカリキュラムも選択していたので多忙だった。
 そして彼はいよいよその多忙の山場である教育実習を迎えた。
 自分の出身高校で2週間教壇に立つ。事前準備、実際の授業、後のレポートと、早朝から深夜まで毎日追われる彼。
 私は、彼が痛々しく、手伝うことも出来ず、ただ傍観。会う時間もなく、せめて声だけでもと彼が翌日の授業準備をしている夜10時頃に電話で話す。話し出すと寂しさがこみあげてきて私は中々受話器を置けず、それが彼の作業の邪魔になる事が分かるから余計に苦しくなってきて、自己嫌悪に陥った。そんな私を見かねて、ある夜、彼が
「今夜はまだまだ準備が終わらなくて、おそらく2時くらいまでは起きてるから、後でもう一度電話かけてよ。俺、それを励みに頑張る」
と言ってくれた。
「え、いいの? ほんとにいいの? でも夜中に電話が鳴ったら、ご両親にもご迷惑でしょう?」
 当時はまだ携帯電話といえば車に据え付けるようなでかいセルラーフォンしかなかった。私達が利用していたのは家の固定電話で、彼の部屋の子機である。こちらからかけると親機がまず鳴る。彼から掛けて貰うと、今度は私の頑固雷親父に聞こえてしまい、「こんな真夜中に非常識だ」と叱責される。
「大丈夫、俺、必ずワンコール目で取るから」
 午前1時に掛けると約束した。私はウキウキと、しかし父の手前、茶の間の電気を常夜灯に落とし、置時計と黒電話を抱えて毛布をかぶってその時を待った。
 いつの間にか眠っていた。慌てて時計を見ると、1時20分。20分なら良かろう。いそいそと番号をプッシュ。呼び出し音がぷるる…ぷるる…あれ2コール目だぞ、だけど今切ったら中途半端なイタズラ電話だ、ええいと耐えて…ぷるる…ぷるる、まずい、こんなに鳴らしちゃったらご両親がっっ…その時、彼が受話器を取ってくれた。
 が、「……」無言である。
「もしもし…、もしかして、寝てた?」
「…う…ん…」
 寝ぼけてる。なんか話せる状態じゃない。
「ごめん、切るね、おやすみ」 がちゃり。
 彼はヘトヘトだったから起きているつもりが睡魔に勝てなかったのだろう。それを起こして悪い事しちゃった。このところ彼は睡眠不足だったのに。あ~あ。でも、でも、彼が電話掛けていいって言ったのに。楽しみに待ってるって言ってくれたのに。
 がっかりと、私は傷付いた気持ちで毛布と電話と置時計を片付けかけて、目を疑った。… 4時5分なのだ!!!!!
 長針と短針を間違った!? えええええええええっっっっ??
 じゃあ私は、彼の家の電話を明け方に高らかに鳴らし続け、約束の電話を待ちながらおそらく2時か3時にやっと寝付いたばかりの彼を叩き起こしたの??? どうしよ~~~~~~~~~~~っっっっっっ
 今すぐお詫びの電話を掛け直したいのをぐっと堪え(当たり前だけど^^;;)、頭を抱えた。一刻も早く謝りたいよう。
 あんなに夜が明けるのが待ち遠しかったことはない。

あの、風。

 あ、この風。頭の中でカレンダーを確認する。やっぱりお盆だ。毎年そう。お盆前後になると立ち始める。
 そうして、この風を人生で最初に感じた時の光景が勝手に浮かんでくる。
 学年までは定かでないが私は小学生で、プールの水面から顔を上げた時だ。
 頬に風を感じた。風は頬の表面をさわわと撫でるように流れていく。水から出たばかりの耳にかすかだが飛行機でも通過しているような耳鳴りがしていて、無意識に上空を仰ぐ。青天の高みのところどころに刷毛で撫でたような雲があるばかり。その間も頬を吹き抜けている風の穏やかさに気づく。涼しいとまでは言わないけれど暑さがない。そういえば太陽も、まだぎらついているけれど少しだけ遠のいたような感じがして。

 秋の気配なんて言葉を知らない頃の、鮮やかな感覚の記憶。

 夜通しドライ運転させていたクーラーを数日前から切って寝ている。朝の出勤時に夫と「涼しくなった」と言い合う。夏は、とっくに折り返しに入っているのだ。

早起きは三文の徳、を覆す!

 些細っちゃ些細ながら、これはこれで取り返しがつかないことにも。
 時計をね、一時間読み間違えるんだ、私は。年に何回か。結構頻繁?

 夫の出勤は早い。始業時間前に一仕事片付けたくて頑張っている。6時22分の電車に乗る為、まだ暗い5時半過ぎに私が起き、お茶をいれ、シェーバーと一緒に夫のところへ持っていく。
 枕元に直径10cmの目覚まし時計を置いており、毎夜アラームをセットするが、夫にはギリギリまで眠ってほしい、できれば鳴り出す前に私は寝床を抜け出したい。
 時計の針は蓄光していて夜中でも読める。そろそろ頃合かと見れば、5時25分、ちょうどいい。いつものように支度して夫に声をかけたが、この朝の夫は、中々目を覚まさない。昨夜はずいぶん遅くまでネットサーフィンしていたっけ。だから早く寝ないとって私言ったのに・・・。
「おーい、そろそろ起きないといつもの電車に乗れないよ、それともたまにはゆっくり出勤する?」
 夫はむくりと体を起こし、この日家から持参したいものがあったのを思い出したらしく、書類戸棚のある部屋へ行ってゴソゴソと探し始めた。そのまま5分経ち、10分が過ぎ・・・。そろそろ家を出なければならない時間になるわよ~とヤキモキ私は居間の壁掛け時計を仰いだ。
 5時10分。

 これまでにも私は間違えて1時間早いことに台所で気づき、布団へ戻ったことが何度かある。しかし今朝はもう夫に声をかけた後だ。ただでさえ眠るのが遅かった夫を、1時間も早く起こしたなんて!!
 ああ、あああっ、どうしよう、どうすればいい?? 
 いくらなんでも出勤するには早すぎ、かといってもう一度寝て頂戴と言っても、目が覚めてしまったものを中途半端に40分だけ寝なおせる夫ではない。あああああッ。
 まずはこの状況を知らせないと。そこへ書類を手に戻った夫に、もう平謝り。
 常々夫をすごいと思うのは、こういう時に腹を立てないこと動じないことだ。ふうん、と一言漏らした後、
「反対に一時間遅いんじゃなくてよかった。いつもがギリギリでバタバタし過ぎなんだ。ちょうどいい、ゆっくり出て、コンビニ寄って、朝飯と昼の弁当を買うよ」
 
 視力はいいし乱視もないのに昔から読み間違える、これって何だ…。
 せめて今夜は眠る前に凝り性の夫の背中や脹脛をいっぱい揉んでサービスしようと誓うのだった。

どうしたの食べなさいよ

 ゆで卵とマヨネーズの相性が好きだ。タルタルソースはもう掛ける主役なんか要らない、それだけで良くて、それだけを食べたくて、止まらなくなってしまうから、むしろ作らない。だから夫は私がこんなにもタルタル好きだとは思っていないだろう。
 ゆで卵を入れたポテトサラダも好きで、こちらは恋しくなると作る。

 昨日作りながら、思い出した。
 父は、手先が器用で手早いから、父子家庭の主夫になる前から料理は得意。夜食の時間になって「巻きずしが食べたいなぁ」と言い出し、お米を2合ざっこざっこ研いで鍋で炊き、その間に寿司酢を調合し、沢庵を刻み、巻き簾を出し、海苔をあぶってスタンバイ。炊き上がったら手際よく巻いて、濡れ布巾で包丁を整えながら切り、皿に盛ってゆく。
「ようし出来たぞさあ食え」
 小学生だった私は、ダイエットなんて考えないから「わーい」と手を伸ばし、一つまた一つと頬張る。
 ところがだ。肝心の、言い出しっぺの父の食が進んでいない。
「なんで?食べたかったんでしょ??」
「う~ん、不思議なもんでなぁ、匂いで腹がふくれるというか、気が済むというか、もうそんなに食べたいと思わんのや」
 皿には巻き寿司がたっぷりあって、子どもに譲るというのでもない。
「ふ~ん、…なんでかなぁ、こんなにおいしいのに」

 ゆで卵のポテトサラダを作って、実は私もあんまり食べないのだ。夕食のテーブルに並べ、ひと口ふた口箸で掬い、あとは夫が食べるに任せる。
 なんだろうねこれは。食べたくて作って、作ったらもう執着が消えたというか。
 うちの親子だけ? 他にもこんなひと居るのかな?

すぐに気付いたよ、

 半年ぶりかな、弟からの電話。
 父の三回忌の日取りを決めたから、と。
「それから」
 そうそう他にもあるだろう、あのことが。
「俺、5月に携帯を水没させちゃって機種変更したらデータを引き継げなくて」
「そうだと思ってたよ」
 ラインのトークリストに突然『メンバーがいません』が表示されたのだった。一瞬あ然となった。夫に冗談めかして「弟にラインを切られた」と言ったが、内心ショックだった。
 あれれ私なにか弟を怒らせることやったっけ?? いやいやこれはあれだきっとうん。
 昨年別の人と同じ状況を経験していたのと、義妹とのラインはそのままだったので深く考えるのをやめた。普段から頻繁に連絡をとりあう姉弟ではないし、ね。
「えっとオトモダチになるの、どうすればいいんだっけ?」
「俺のID簡単だから検索して」
 そう言って、あだ名と4桁の数字を口にした。
「あ、この数字!」
「やっぱり、姉ちゃんは分かるか。俺の周りの知り合いはこの数字を見ると”何の数字?”って訊くけどな」
 それは、もう20年近く前に亡くなった、弟の娘の誕生日と命日だった。
 弟夫婦が不妊治療までして待ち望んで生まれてきた姪は、超早産で、月初めに生まれ、その月末に亡くなってしまった。私には子どもがいないから、弟夫婦の気持ちに真に寄り添うことは出来ないが、せめてこの姪のことを忘れずにいようと思った、ひと月もこの世に居られなかった姪のことを。
 それから数年経って、弟夫婦は娘を得、今は穏やかに暮らしている。
「いい数字を使ってるね」
「うん、銀行の暗証番号とか全部これ」
「じゃ私は今日、重大な秘密を握ったねぇ。あ絶対に悪用しないからっ」
 三回忌の詳細はまたね、と電話を切った。
 切った後しばらく4桁の数字の余韻を感じていた。それは、寂しさが混じりながらも、年月が経った今となってはほの暖かいものだった。