”同期”のサクラ

 懐かしさにもスパンと深さ様々。
 この5日間に2つの再会があった。
 昨日は夫の従姉の娘Kちゃん…この間柄をいとこ違いと言うのですって。呼び方が冷たくないかい?…と2年ぶりに会えた。
 Kちゃんは毎年広島から神戸まで遊びに来てくれる。ちょっと凄い人物だと私は思っている。介護職で活躍していたが、目の前で苦しむ高齢者に医療行為が出来ないもどかしさから38歳にして猛勉強、看護学校を受験し、3年間学んだ。そしてこの春、目出度く卒業を迎えた。4月からの病院勤務を定年まで勤めあげ、その後は認知症高齢者の為の施設運営を考えている。
 去年は私が入院していて会えなかったので、2年ぶりになった。ランチしてぷらぷらウィンドウショッピングして、疲れたらカフェに入ってお喋り。私には珍しい女子会王道コースが辿れるのだ、Kちゃんとは。チーズケーキを頬張る私に、Kちゃんがスマホに納められた写真を見せてくれた。白衣の天使たちは数枚後に華やかな袴やドレスにお色直ししている。「卒業式の日のです。ほとんどが21歳の同期たち。この子とは実習の病院も一緒で、授業後にはよくスタバで溜まって…」
 同期。特別な絆で結ばれる仲間。夫も入社して半年間の寮生活を共にした同期とは折に触れ集まる。
 【同じ釜の飯を食う】という言葉がある。
 …長い期間を一緒に暮らし、苦楽を分かち合った親しい仲間であることの喩え…とあるサイトに説明されていた。比喩だけでなく、実際に寝食を共にすると、他者に対する不安や猜疑心を抑制する脳内ホルモンのオキシトシンが分泌され、信頼感を深められることが科学的にも証明されている。これを利用して、ケータリングなどを呼んで食事の時間を設けている会社もあるとか。
 大卒後に従業員数名の設計事務所で勤め、そういう存在がいなかった私。
 月イチの通院に出掛けた5日前、懐かしい顔に出会えた。待合室でぼんやりと”入院手術からちょうど1年か、Tちゃんどうしてるかなぁ”と考えていたらそのTちゃんがやってきたのだ!
 Tちゃんとは同室で3週間一緒だった。私達がお世話になる病院は、普段の通院は市街地のクリニックだが、入院となると郊外の系列病院になるから、退院後は顔を合わすことがなかったのだ。
 高齢者がほとんどの整形外科病棟で40代とほぼ同世代、同じ病で1週違いで手術を受け、斜向かいのベッドで、「このカボチャのサラダ、チーズ入ってますよね」「今日のお昼はチラシ寿司ですよやった~」なんて会話を飛ばした。不安な病状や自分が留守にしている家のことなんかも勿論。
 Tちゃんもこの日は私と会えるんじゃないかと考えながら病院まで来たという。以心伝心?
 「その後具合はどう?」「いやちょっと胃腸壊して薬減らしたら炎症が酷くなって」「血液検査の数値がさ…」などと矢継ぎ早に言葉を交わし、足りなくて、診察後にカフェへ寄った。
 互いのこの1年のことを聞き合い、ペットの話を交わし、尽きることがない。
 ラインするね、またお茶しよね、と手を振って別れた。
 病が縁では喜ばしくないが、あれほど濃密な時を共にした、まさに”同期”だ。

似合っていた服が急に色褪せたら、

 図書館の返却カウンターへ数冊を差し出すと、その中の『50歳、おしゃれ元年』だけをスタッフが奥へ取り分けた。次の貸出し予約があるらしい。気になるお年頃、か。
 アラフィフ…若い頃の服がしっくりこなくなる、そしてまだクローゼットの一大整理を行う気力体力があるこの年頃に、自身のライフスタイルを見つめ直そうというのがこの本の趣旨だ。何年も着ていない服とのサヨナラの仕方と、これからの大人女性らしい、失敗しない服の選び方。
 その中に、はっとした記述がある。
 【服は人を輝かせ、やがて寿命がくる】
 服が最初持っているパワーを私達は吸い取り、素敵に見える。服はパワーをどんどん失っていく。そうしてある日、今まで似合っていた服が急に色あせて見えることがある。年ごとに僅かながら移ろっていくトレンドの袖の細さや襟開き、パンツ丈等と体型の変化に、ある時を境にして服は応じられなくなってしまう。これが服のパワーが尽きた時、寿命の時なのだ、と。
 私は手元のセーターを眺めた。買ったのは結婚間もなくだから29歳か、落ち着いた臙脂色のリブタートルで、ネックの縁に控えめな飾り編が施されている。幸い体型の変化もなく、気に入ってずっと着ていた。それが、数年前からしっくり来なくなった。体に添わないような。しかし毛玉が目立つとか毛糸が伸びているとか、目に見える傷みはないから、捨てるに忍びなかった。
 そうか寿命があるのだ、寿命だったのだ、そりゃそうだ20年も着れば。
 服の持つパワーという点でも思い当たる事があった。
 数年前に気が付いた事だが、量販店で格安で買った服は、数回袖を通したきり着なくなってしまう。なぜだろうと私なりに出したのが【素材の力と縫製などで関わる人の念】説だ。
 工場で大量生産される合成繊維はペラペラと薄ら寒い。海外の工場で安い賃金でミシンを走らせる職人さんの疲れた眼差し。服のポテンシャルは低く、尽きるのも早い。
 絹にはお蚕さんと養蚕家の情熱。木綿には土と太陽の温もり、雨の潤い。これを仕立てる織物、編み物、縫製などに人の手がどう加わるか。
 そんなことを思うようになって以来ハンドメイドのサイトを毎日チェックし、最近ではワンピースを自分で縫ってみようかと考え始めた。                  
 服だけではないんだろうな。ちょっと怖い気もする、何にでも念やパワーが宿っていると思うと、ね。いい関わりをしなくては。

アナタを上手に愛したい

 お弁当がいい感じに出来ると早朝の台所でひとりニヤついてしまう。
 夫は週に2、3回お弁当を持っていく。今日は重要な業務が控えていたので、夫の好物の炊込みご飯を朝から炊いて、おかずも美味しそうなのを用意できた。しかし昨日は考えがまとまらないまま台所に立ち、もたもたと作ったおかず数種のバランスがイマイチ。続いて急いで夫の朝食に、お弁当の残りのおかずも動員。そして、アッとなった。朝食べたものがお昼にそっくり入っている。これでは蓋を開けた時のワクワクは微塵もないではないか。
 私は元々家事が嫌いだ。父子家庭の長女だった私は、小学生の頃、家事の為に一緒に遊んでいた友達の輪から抜けて帰らねばならなかった。買い物に行き、夕飯を作る。料理が一番嫌いだった。それでも結婚後はほぼ専業主婦の私がするのは当然で妥当だろうと行ってきた。
 が、作った料理が美味しくないと凹む。これは結婚以来感じてきたことだ。その凹み具合が凄まじい。それこそもう人格を否定されたように滅入ってしまう。
 なぜこんなにも落ち込むのかと思っていたところ、料理研究家・土井善晴さんの『料理する意味』という論説文にこんなことが書かれていた。
 栄養を摂るだけならサプリや外食でもよい筈、そのまま食べられる食材にも手を加える、その意味は…❝調理は外部消化と言われるのですが、食べ物を柔らかくして噛みやすく、消化しやすくします。それによって、人間の顎や消化器は小さくなり、効率よく合理化したおかげで、余ったエネルギーで、脳を発達させ、また、「余暇」という動物にはない特別な時間を持ったのです。自由な時間を持った時、人間は何をしたのかと考えています。人間の命の働きが愛情である以上、人間は、自分以外の、人のためになることを、何かしたのだろうと思うのです。愛情をもって、家族が喜ぶことをする、時間ができたのです。
「料理することはすでに愛している。食べることはすでに愛されている」。余暇を持つことで、料理するという行為に、情緒的な潤いができたのです❞
 失敗すると凹むワケだ。料理することは人を愛することだった。

卒業アルバムを捨てようかと

 卒業アルバムってなんだろう。
 実家の荷物の整理をしていて今更ながら疑問になった。
 学生時代の記録と思い出、ひと言で言えばそうだろうが、その内容はどうだ。極めて表面的なものではないか。私は卒業後に一度開いたくらいで後の数十年は開けずじまい。大切な友人とのスナップや想い出は別にとってある。
 学校が楽しかった人には良き記念か。私はごく親しい友人とは充実の時間だったと思うが、後は、関わりの薄い大勢の同級生と経済的に苦しかった学校生活の記憶ばかりで、卒業式の日には嬉しかったものだ、次のステージへ進めることが。
 ネットで『卒業アルバム 処分』を検索してみた。私同様に処分を迷った相談の、回答は2つに分かれていた。
 1つは処分法を教示する内容。個人情報流出を防ぐ為に写真や名簿を責任をもって分解廃棄するようにと。厚紙は扱い難いですよ、と。
 もう1つは「そんな大切なものをどうして処分するのですか」だった。
 私は夫に訊いてみた。
「卒業アルバムって要らないよねぇ、捨ててもいいよね」
「…捨てることは無いんじゃない?」
「でも置いといても、見ないよね」
「 … 」
「なんの為にあるんだろうね…」
 答えは見つからないままだ。