天使の翼は誰の背中にも

 大人になると失くしてしまうもの…陳腐にさえ聞こえるが、それを思わずにはいられなかった。幼児は全く別の世界を生きているようだ。
 保育園経営に携わる友人が幼児作品展の案内をくれて、ふらりと、久々に友人の顔を見られればと出掛けた。しかしギャラリーへ入った途端に捉えられてしまった。子ども達の絵が壁一面にずらりと並んでいる。その一枚目の絵が、正直何を描いているか分からない。大きな紙に黒い筆が縦横に走る。救いを求めて題を見ると”〇〇ちゃんとこうえんで遊んでる。トイレはここ”とあって余計に頭がこんがらかった。気を取り直して次の絵に進むも、同じ。描かれたものが分からない。題と全く結びつかない。次も、その次も。何となくソレと分かる作品があり、念の為題を確かめると”くじゃく。きれいって言ってる”。ただの孔雀じゃない、喋ってる!? この辺りでようやく私はこの作品展を理解した。常識的な尺度で量るなんてナンセンス。分かる訳がない。とっぷりとこのパラレルワールドに翻弄されてみようではないか。
 最初の10枚を見るのに5分かかったろうか。そこへ友人が現れた。挨拶もそこそこに「すごいね」と言うと、友人は説明してくれた。「テーマを与えずに子ども達が自由に描いて、題は後から先生がその子に聞いたものなの。でもね、正直その題の通りか、現実かどうかも疑問。絵日記みたいに経験した出来事を描いてるようで、絵本やTVや夢で見た事と現実との区別がついてないみたい」
「自分がいかに枠に縛られた、頭の固い人間かを思い知らされるね」
「まあね。でもこの絵を描いた子達だって、大きくなるにつれて失っちゃうんだよね、平凡になるというか。社会生活に適応する上でそれも必要なことではあるんだけど」
「なんか勿体ないねぇ」
「だから、子ども達の才能をこのまま伸ばせるようにこんな作品展を開いてるの」
 こんな機会は滅多にあるもんじゃない。よし全部見てやろうと決めた。
 絵を見て、題を読む。”ママとお姉ちゃんが遊んでるところ”と題された絵は、正方形の下半分が赤、上が黄色に塗られているだけだった。なんで? 動物の家族や、プールで遊んだ思い出など様々。やがて題が面白くなってきた。”ママとパパと▲チャンと川で遊んでいたら、きいろい風がふいてきた””ふうせんがあばれてる”子どもが語ったそれはそのままで物語みたいで、詩みたいで。
 800点余りの作品を、途中から急いだが、見終わると2時間半が経っていた。

 私もこうだったかしらと幼い頃を思い出そうとしたが、記憶は物心ついてからのものしか残っていない。物心つく、とはこういうことか。そういえば、幼稚園で、大輪の菊の花を画用紙いっぱいに書いた時、他のクラスの先生達まで見に来て、すごく褒められたのを覚えている。私の、絵にまつわる最初の記憶だ。

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願い

「これをしちゃ駄目」と言ったことをことごとく実行する…とある認知症の方の事が書かれていた。駄目と注意されるとその事に意識が向く。向いても、通常ならそれを我慢するが、自制心が弱いのが子どもと認知症
 禁止より肯定で。分かってて出来ないから余計に自己嫌悪が募る。生前の父に私はガミガミ言った。言わずにはいられなかった。自分の親だもの。しっかりしてよどうしちゃったのピカピカしてたお父さんはどこにいったのよ!目の前で分からない行動をする父を容認できなかった。
 それに人格まで変わってしまうあれは何だろう。一番酷かったのは、父が「誰か人を殺して、お前の人生まで滅茶苦茶にしてやるからな」と言った時だ。父は足を骨折して入院中で、痛みや手術、環境が変わった事によるショックとストレスで攻撃的になっていた。とはいえ、付き添いの娘にそこまで言えるものだろうか。
 泥酔や認知症によって現れる人格は、本来その人が持っていた内面なのか、それとも全く別人になっているのか。どうか後者であって欲しい。
 大好きだからこそ、その人格が壊れるように感じると、こちらまで壊れそうで怖くてたまらなくなる。黙って微笑んであげるには、少しでいい、距離をとらなくては耐えられないもの。
 施設で父は、ここ数年落ち着いて暮らしていた。寄り添って暮らさなかった私は親不孝だが、亡くなる6日前に訪ねた時、父のベッドに並んで腰かけ、和やかに話し、にこやかに手を振って別れることが出来た。
 友人のお母様が認知症で施設にいたのを、病気で入院し、退所せねばならなくなった。次の施設を探して友人はあたふたしている。そんなメールが届いた。私の父も、亡くなった日、本当なら病院へ行く予定だった。検査して入院して、きっと同じことになっていた筈だ。朝からずっと考えてしまっている。どうか良い道が開けますように。

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謝れ、人の本質は善だ!

 滅多に混まないコミュニティバスに、ジャージ姿の一団が乗ってきた。中学生ぐらい、クラブ活動の遠征だろうか。十数人ほどがどんどんと乗り込んで、通路に立ち並んだ。正直、ちょっと憂鬱になった。この子たちはおそらく終点の駅前までいる。私は途中で降りる。席から立ち上がって、狭い通路を「すみません、降ります」と言いながら、子達のリュックにつっかえつっかえ降り口まで進むのだなぁ、と。
 さて。降車ボタンを押した途端、真横に立っていた男の子はさっと後ろへよけてくれた。小さくありがとうと会釈して通路を進みかけると、今度は立ち並ぶ3~4人がやはり体を寄せて通路を広く空けてくれるのだ。ありがとう。つっかえたのは最後に立っていた引率の先生だけ(笑。
 降りた私は驚きと反省でバスを見送った。「すみません」じゃなく「ありがとう」と言わせてくれて、ありがとう!

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子どもの感性が大人の脳を揺さぶる!

これは何を描いたものでしょう??f:id:wabisuketubaki:20171202102131j:plain 竹馬ですって。

これはf:id:wabisuketubaki:20171202102152j:plainママと観覧車にのってるそうです。

f:id:wabisuketubaki:20171202102215j:plainちんあなごのかぞくのごはん、メニューは炒飯。

f:id:wabisuketubaki:20171202102225j:plain燕の赤ちゃんがお母さんを待っています。

 

「新・童美展」行ってきたんですが、昨日の感動が去らない。

今日と明日、兵庫県立美術館のギャラリー棟は無料です!

行ける方は是非是非!

 

主に3~5歳の子ども達の作品が800余り展示されています。

大人には”型破り”に見えますが、そんなもんではすみません(笑。

例えば、縦の大きな長方形の紙の、いっぱいに緑色が塗られている。これは何?とタイトルを見ると「ママはいつもコーヒーを飲んでる」??…マグカップの色なんでしょうかね?

或いは、タイトル「ママが焼きそばを作っているところ」は、大きな画面に青い絵の具がただ一色、大胆な筆遣いが走っていたり。

初めのうちは一つ一つ、絵とタイトルを見比べて理解しようとするのですが、すぐに不可能だと分かります。あとは思いっきり、けむに巻かれてください。脳みそをわきわきほぐされる感じでした。またポエムとも言えるタイトル(子ども達の作品解説)に胸がじんとしたり、「なんでやねんっ」と突っ込んだり。

この「新・童美展」のこと、もっとお話したいんですが、先にご案内!

今日と明日、兵庫県立美術館のギャラリー棟へ行ける方は是非是非!!!

父語録。殴る、は駄目だけど

 折に触れ、父の言葉が読み出される。それは亡くなったからではなく、もうずっと私の日常だ。
 台所で小麦粉を水で溶いていると「ぬるま湯を使うとダマになりにくいで」とか、夏にご飯を炊く時は「お酢をちょっと入れると腐り難いんや」とか。「お米には七人の神様が宿ってる、1粒でも粗末にしたら罰が当たるで」 おかげでお米をうっかり数粒こぼしたりすると、床を手のひらで撫でて、レンジ台の下まで捜索に及ぶ。「椎茸は旨みが逃げるから洗うなと言うけど、ちょっとは洗わんと気持ち悪いよなぁ」私は躊躇わずちょっと洗う。
 子どもの頃からずっと言われたこと、耳にしたことは、沁み込んでしまっているのだなぁと、父が亡くなって改めて実感する。
 小学生の頃、友達と諍いをして泣いて帰ると、「負けて帰ってくるな、殴り返して来い!」と追い出された(注/私は女の子です)。
「秋田犬の子犬はかわいいで」確かに。見るともうメロメロになる。
「うまいもんは宵のうちに食え」遠慮なく頂きます。
「刃物を使う時は刃の前に指を出すな」そそっかしいわりに手を切る事は少ない。
「悪い事をする時は腹くくってやれ」大学の授業をサボる時は単位を落とす覚悟で臨みました。
 事の大小あれど、親は子に、知恵や生き方を譲り渡していくのだ。私は特に子を望まずきたから、いないことに殊更の思いはない。しかしごく最近になって、私が父に貰ったものは誰にも引き継いであげられないのだと気付き、その点だけは惜しいような、勿体ないような気がしている。

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