雑草かどうかを決めるのは

 小さいながら庭のある家に住むのは初めてで、数年たってようやく、伸びた枝がお隣へはみ出さない程度のケアが身についた。
 すると、足元に次々に茂る雑草が気になってきた。抜いても抜いても、ひと雨ごとに勢力を増すから、1週間もすれば青々する。
 雑草対策、と打ち込んで検索してみると、その一つの方法として”グランドカバー”と呼ばれる、地を覆うタイプの植物を植えるというものがあった。代表的なものは芝生である。他にも、クローバーやアイビー、ハーブなどが挙がっていた。よしこの方法でいこうと、庭を眺めれば、庭の奥の方から小さい黄色い花が畳半分くらいの面積に群生し始めていた。葉もクローバーのように可愛い。
 これ可愛いじゃない、これをグランドカバーに出来ないものかしら、そもそもこれって何なの、と調べてみたら…カタバミという代表的な雑草だった。凄い繁殖力だから、全力で根絶やしにせよ的な書かれようである。あちゃ~。
 で、ふと思った。そもそも雑草とそうでない草との分類はどうなのよ、と。人にとって役に立つか立たないか、要るか要らないか、だけの筈。
 雑草と言われれば排除せねばと思うけれど、それじゃ野草とはどう違うのか、野草というと排除脅迫が少し緩むのは私だけだろうか。
 う~ん、カタバミ、かわいいんだよね。
 誰かカタバミのことを「雑草じゃないよ」と言ってくれる人がいないかなぁ。
 期待を込めて検索を続け、幾つも見たページの中で、お一方、カタバミの全面排除反対派がいた。カタバミは、シジミチョウが卵を産んで育てる温床になっているから、根絶やしにするとシジミチョウが滅びるというのだ。で、この方は、ある一角だけ、鉢植えでもいいからカタバミを残したほうがいいと説く。広がりに留意、抑制しながらグランドカバーとして残すという。
 強い人だ。
 私は植物の繁殖管理に不安があるからそこまで思い切れない。カタバミを排除する方向へ心が動いているが、シジミチョウの為に何らかの事をしたいと思い始めた。
 ああ、お庭づくりにまでアイデンティティを問われるとは。

やはり、メビウスの輪かな

 父の四十九日のことで弟から連絡があった。着々と進めてくれている。
 感謝。
 弟の言葉ではっとした。告別式での事だ。
 家族以外に参列下さった方がいたので、弟が喪主挨拶を述べた。父が早くに伴侶に先立たれ、1人で子を育てたこと、自分も子を持ち、父の困難が改めて分かったこと、晩年の様子と亡くなった経緯、等を述べ、参列の方へのお礼で結んだ、簡潔でいい挨拶だったと思う。
 続いて、棺を閉じてしまう前のお別れを行った。納められるだけのお花を手向けながら家族が父の顔を囲んでいると、葬儀社の方が「お顔に触ったりできるのはこれが最後になります」と告げた。弟が動いた。手を伸ばし、父のおでこを撫で、鼻詰まりの声で言葉をかけた。
「…ありがとうな」
 私は愕然となった。私は父に「ありがとう」の言葉をまだかけていなかったのだ。慌てて取り出そうとしたが、私の胸のうちには父への「ありがとう」が見当たらなかった。二度びっくりだが無いものは無い。ほんの一瞬だけ迷ったが、口先だけを繕っても意味がない、言わないことにした。
 これにはさすがにまいっている。ずっと引っかかっている。父もびっくりしているんじゃないかしら。父にたとえ至らぬことがあったにせよ、1人で苦労して育ててくれたからこそ、私は大人になれ、今こうして安穏に暮らしているのだ。子供の頃から私はお父さん子だったし、父の凄い所をいっぱい知っている。常に父の教えの中で日々を送っている。多少困り事を起こされたとはいえ、私は父と仲が良く、互いに特別の繋がりを感じていた。それなのに、なぜ父にかける「ありがとう」を持っていないのだろう。どれほど恩知らずな娘なのかと、恥ずかしくてここに書くのを躊躇ったが、しっかりと記録しておこう。
 父の死に泣けなかった事、「ありがとう」のない事。亡くなる一週間前に父を訪ねた時に、私は父との関係をメビウスの輪だと書いた。私は生い立ちの中で自分でも気づかない縺れを作ったのだろう。これを解くこと、父という人を読み解くことが、私に与えられた課題なのだろう。私は「もう何年も前からゆっくりと父とはお別れをしていたんだと思う」なんて、泣かないことの言い訳を夫にしたが、違ったかも。
 「ありがとう」しかありえない。初めから答えが決まっているこの問題の途中の計算式を埋められるのはいつのことか。ああ、私、宿題やり残したままなんだ。弟に後れを取ってしまったな。

 ところで、今まで私は斎場が怖かった。棺が炉の中へ送られ、分厚い金属の扉が閉まる時、いつも『ああこれで本当にもう一巻の終わりだ、万一生き返っても、叫んでも聞こえないんだ』と思っていた。しかし通夜のお経をあげて下さったお寺さんが教えて下さった。故人の霊魂は告別式で位牌へ引っ越しを終えているから、斎場に運ぶ遺体は空になっているという。だから今回初めて安らかに棺を見送れた。これからも、もう怖くない。
 そして、葬儀というのは、故人に、お坊さんになる人とほぼ同じ出家の儀式を授けるものだそう。お経によって、これからあなたは仏になるのだと宣告され、守るべき戒律を言い渡され、新たな道へと送り出される。
 お父さん、いってらっしゃい。またね。

ミッションコンプリート

 亡くなって明日で2週間になるのか。
 通夜の読経が流れる中で、遺影の父の表情が晴れやかになっていくのを感じた。
『やっと帰れますねん』
 そう言っているように見えた。
 私は輪廻転生を信じている。人は幾度も、気が遠くなるほども生きて、様々なシチュエーションに置かれ、課題をこなし、魂を磨いていくものだと。
 この度の父の生は過酷だったと思う。
 父を産んで間もなく母親が亡くなった。父親は早々に他府県で再婚した。父と姉は母方の祖父母に育てられた。祖父は酒乱、祖母は限りなく優しかったが、親のない寂しさは埋まらない。社会人になって数年後に祖母が亡くなったのを機に、父は故郷を捨てるように離れ、今の町で働き、母と出会い、結婚した。気難しく奔放な父に、母は従順に応じながら、子を産み、理想の家庭を作るべく奮闘。父は生まれて初めてつつましくも温かな家庭を手にいれた。さあこれから。その矢先に、母病没。幼子を抱え、悲しみに暮れることさえ許されず、頼る親類縁者もなく、しかし自らの父親のように子どもを捨てたくはない。手先は器用だが生き方は不器用な父の苦しい子育てが続くことになった。
 私が小学生の頃、父は何度か「お母さん(自らの妻)のところへ行きたい」と言った。その度に私は引き留めた。それは自分が困るからだ。この上父にまで死なれてはどうしたらいいかと不安だった。しかしその後の父を思うと、ああ父を早く死なせてあげたら良かったと今では後悔している。
 父は仕事自体には人一倍生真面目に取り組むが、上司に理不尽な事や意地悪を言われると、途端に頭にきて辞めてしまう。我慢が出来ないのだ。こんな事を繰り返して経済的にも追いつめられていったし、子(弟)は思春期で思うようにいかない。
 やがて植木の仕事にやりがいを見出すも身が入りきらないまま年老いていった。弟と私が結婚して独立して気が抜けてしまったのか。困り事を起こすようになり、子には疎まれ、そのうち認知症も出始め、施設で暮らすことになったが、それからの数年は父にとっても家族にとっても穏やかな年月となった。
 父のこの人生っていったい何だったのだろうと思わずにはいられない。せめて最後の数年を子らで盛り立ててあげれば違ったものになったかもしれないが、しないままになった。
 こうして85年の長い時間をこの世で過ごした父が、やっと解放される。
 よかったね。やっと帰れるね。
 これが葬儀の間中、私がずっと思っていた事だった。

本当に家族だけのお葬式

 葬儀に来てくれる人がいないのはやはり寂しいことだろうか。
 85歳の死。父には元々親戚が少なかった上に、結婚して数年で妻に先立たれ、妻側の親族とは疎遠になっていた。就職時に故郷を離れて久しく、生活に追われ、友人との交流も絶えていた。随分前に仕事関係の付き合いも終っている。
 父の姉が1人存命だが、他府県在住、持病多数の89歳であるから来られないことは承知の上で電話で伝えた。伯母は受話器の向こうで泣き、泣いた事を「みっともなくてごめんなさいね」と詫びた。
 夫は一人っ子。義母は既に他界。80歳の義父は透析通いの老体だから来させなかった。
 弟の妻・義妹は、両親共他界、お姉様のご主人が重篤で付き添い中。
 夫も弟も勤務先の方へは弔問を断った。
 だから、弟家族と私たち夫婦以外に、お通夜には父がいた施設から1人と夫の従姉が1人、告別式には弟の勤務先を代表して2人、弔電が9通だけの葬儀であった。
 とはいえ、父の旅支度はしっかりと整えられ、供花に彩られた祭壇は輝いて見えた。人並みなことをしてやれたと弟が言えた事がこの葬儀の最も大事な意味だったと夫も賛成してくれた。

 父の遺影は、施設で撮られたスナップを頂いて作った。父は照れかくしにおどけてしまうから正面をきちんと向いたものがない。仕方なく一番機嫌のよさそうな顔を選んで、服などは葬儀社で加工して貰うわけだが、この際も面白かったな。見本には百以上の服装があって、私はここ数年父の普段着だった白ポロシャツでいいと思ったが、弟は違った。父が現役時分に最も好んで着た紺の背広にネクタイを選ぼうとするのだ。その上、「着物もいいかな」と言うのには驚いた。
「ええ? 着物なんか着なかったじゃない」
「ほら俺らが赤ちゃんの時の写真に、正月で、お父さんが着物姿のがあっただろ」
 ああ! でもそれは父が30代のものだ。古いアルバムの中の一枚、私が生まれて間もなく迎えたお正月で父は筆を握っている。書道が得意だった母と書き初めなんかしている、幸せな父。弟は当然まだ生まれていない頃なのに、この写真を弟は記憶に刻んでいるんだな。同じ家で20年ほども一緒に過ごしても、胸のうちに、こうも違うものを育てるのか。
 結局、遺影の上向きな顔には着物の襟もとがいいだろうと、弟が着物に決めてくれた。出来上がってみると、引き伸ばした写真だから少しピンボケになるし、父らしい顔には見えなくて、弟の表情も曇った。しかし、祭壇に飾られたその写真を、通夜の読経を聞きながら見つめていると、みるみる父の表情が穏やかににこやかになっていくのだ。私は弟に言った。
「この写真にしてよかったね」
 父は本当に満足げだった。

弟を通して見える父

 亡くなった朝からちょうど一週間。これまでは、まだ4日、まだ5日、まだ…と感じていたが、7日経った今日は、もう一週間になるのかという感じがする。書き始めたはいいが、どこから取りついたらいいか途方に暮れる。それでもPCに向かい、さて。
 父が亡くなったと施設から連絡があったことを、弟に電話し、葬儀社手配についても打診があった事を伝えた。「施設のほうでも紹介してくれるし、心当たりの所があればそこに決めてくれていいよ、喪主は(弟)だから」と言うその言葉を私は、碁石をぱちんと盤に置くように押し出した。踏ん切りを要したのは私自身に対してである。
 お父さん子で年上で女の子だった私が、父子家庭の家の事を手伝ってきた。父はやがて精神的な弱さを現しだし、私が結婚した辺りから時折困った事を起こすようになっていく。その度、対処したのは私だった。何度か移らねばならなかった父の行き先をその都度探し出したのも私だった。父と少し気持ちが遠かった弟に背負わせるのは可哀想に思えた。幸い夫は私以上に積極的に父を支えてくれた。そのおかげもあり、ここ数年の父はとても穏やかに過ごしていた。
 喪主は、私でもおかしくはないだろうが、手を引いてもいいだろう、いや引くべきだ、旧姓を離れて20年になる。これからは長男である弟に父と手を携えていってほしい。葬儀費用の半分を夫が快く申し出てくれて、内容については全て弟の納得のいくように進めて貰うことにした。
 弟には弟の思いがある。父を運ぶ際のこと。ご遺体をこれから葬儀場へ移していいですか、と葬儀社の方に問われた弟が黙り込んだ。あれ?何を躊躇うことがあるのかと訝しんだが、思い当たる事が。普段から口が重めの弟に私は水を向けた。
「一旦自宅に寄って貰う? それか、家の中に入らなくても、前を通って貰ったら? お父さんに家を見せたいんでしょ」
 3年前、娘が小学校に上がるのに合わせ、弟は新築一戸建てを買い、一度父と私と夫を招く機会を持ちたいと言っていたが実現していなかった。やはりその事だった。
 父を乗せた寝台車を、弟の車が先導し、最後尾に私たち夫婦が続く。バイパスを少しの間走り、落ち着いた住宅街へ入り、奥まった一軒の前で止まった。小さいがスマートな外観の2階家。家の中から愛犬の声が響いてくる。葬儀社の方は寝台車の扉を開け、父をくるんだ白布の顔の部分を開いてくれた。父の傍らに弟は立ち、自分の家と父をゆっくり交互に見、その様を見守る私に向かって、「来て貰うつもりやったのに…」「もっと早く…」を繰り返した。
 そこからは葬儀場に向い、粛々と父を送る支度が進んでいった。
 通夜に先立ち、枕経を上げて下さったお寺さんが、父の生い立ちや気性について尋ねられた。色々あり過ぎて、父という人のどこをどう説明すればいいのだろう。厳しい、気難しい、器用、…。弟の目から見た父はどんなだったかと、私は弟の答える声を聞いていた。
「父は、茶目っ気というか、小さい子どもをからかったり、古典的な罠を作って雀を捕まえたりしてました」
 え、まずそこ?確かにそういう所はあったけど、それじゃ伝わらないんじゃない、と内心小さく焦っていた私の耳に、続いてお寺さんの問う声が。
「お仕事は何を?」
 弟が答えに窮して私を見たので、母生前の仕事と職転々、人生の後半を植木職人で仕舞ったことを話した。職転々は父の暗い経歴でしかないと思っていたが、お寺さんは「ほう色々なお仕事をなさったなんて、すごいですね、それじゃお父さんは器用な方だったんですね」
 おっと、そういうふうに伝わるんだ。そうなのだ、父はとても器用な人だった。工作、家事、何でも出来た。料理は勿論、ミシンで私のスカートのウエストを詰めたり、手袋を編んでくれたり。父子家庭でも実用的なことで困る事はなかった。そんな事を考えていると、弟が続けた。
「はい器用でした、自分で漬物を作って、お茶漬けが好きでした」
 え、そこ? まあ確かに漬物は漬けてたねぇ。
「お父さんの趣味は? どんな事がお好きでしたか?」
 動物が好きでした。父がこれまで飼った生き物の事を話す。
 盛らず飾らず、恥ずかしいことも構わない、そのままの父を出したいと思って話すのだが、口から出ていく言葉は、どうもすべてが良い事になっているように感じられ、この辺りで私は諦めた。無理なのだ、この僅かなやり取りで父の生涯を伝えるなんてできる筈がない。
「最後に、お父さんは信仰はお持ちでしたか?」
 特になかったので、母が亡くなった時には母の実家の宗派で弔って貰った、ただお寺を見たりするのは好きでした、と弟。
 お寺さん「へえ、お寺を?」
 弟「そうやったよな」と、私へ向ける。
 私「父には同級生にお寺の跡取り息子さんが何人もいて、よく遊びに行ったそうです。そのせいか、真言密教の本を好んで読んでいました。『一切は空』なんて題の本がうちにありました。信仰というよりは学究的な興味で読んでいたようです」
 話し終えたところでふと思い至ったことがある。お寺さんは、故人の良い事だけを引きだせる質問しか向けていないのではないか、職業的テクニックとして。悪い所を聞いて何になる。
 それはそうだろう。たとえ嫌な事があったにせよ、今となっては残された家族が穏やかな気持ちで故人の思い出を抱いて送れればいいじゃないか。
 けれど私はそれだけで終わりたくないと強く思った。私しか知らない事が沢山ある。辛い事もあり過ぎた。この世で私が一番父をよく知っている。本当の父の姿を捉えていたい、とお寺さんの背中を見送りながら思っていた。