叱られて

 昨日、夫に叱られた。私がなかなか何とかしないクッションのカバー問題で。
これはひどいわ…」と、居間でTVを見ていた夫が、フローリングのざらつきを指摘した。よく使っている円座がちょっと前からほころんで、中のクッション材が少しずつそぼろ状になってこぼれてくるのだった。
「こないだホームセンターで特価になってるカバーを買おうと言ったら、キミはサイズが分からないから測ってからでないとと言った。そのあと自分で作ると言って、手芸屋に行ったけど気に入ったものがないと布を買わなかった。それっきりじゃないか。カバーを何とかしないなら捨てたほうがマシ」
「ごめん、何とかするまでコレは片付けて、別の座布団を使って」
 そそくさと円座を部屋の外に出した。
 私がぐずぐずしていたからで返す言葉もない。ズボラと解されて当然だろう。それほど面倒に思っていたつもりはない。近頃私は手作りに興味があって、テキトーな市販品を買うよりも作りたいと思っているのだが、お尻の重い所があって、布を買いそびれていた。
 ところで、叱られたことで、夫と私とのズレに気付いた。妙な言い訳になっては困るから口に出さないし、第三者の公正な目で見れば言い訳だな…。
 私はフローリングに直座り或いは座布団派で、真ん中のあいた円座はもっぱら夫が敷いていた。しかし他にないわけじゃない、そぼろが気になるなら、私がカバーをなんとかするまで使わなければいいのに、夫はずっと使い続けていた。そぼろは出続けるわけで。
 いえ、そんなに好んで使う夫の為になぜすぐに手を打たなかったのかと、そこのところの反省は十分感じていて、その上で、夫とのズレというより、私が夫に対して”なぜアナタは使い続けたの?”と思ったことが薄気味悪いというか空恐ろしいというか…。どちらが正誤とは別に、他にも夫と私との見解の違いが潜在しているのではないかしら。
 とはいえ、間違っているのはたいてい私で、そんな自分が嫌で、つくづく夫に申し訳ないけれど、夫が正しい人であることに安堵する。私の夫は素晴らしい人だといつも思っていたい。
 という訳で今日はこれからカバーもしくは布を買いに行くぞ!

無精卵を抱く

 4日前、インコが卵を産んでいた。メスだったのね。
 この春、譲り受けたコで性別は分からなかった。紙を好んで細長く噛み切っては尾羽の辺りに差し挟もうとする、この自らを飾り立てる行為から、オスではないかと思っていたのだが。
 ケージの床にころんと転がっている真っ白な卵の、唐突な存在感。サイズは指先ほどで、鶏に比べれば極小だけど、インコの体には大き過ぎる。産みの苦しみを想像せずにはいられない。
 四六時中ではないが、ケージを覗くと、インコは胸の羽毛をふんわりと床に押し広げ、卵を覆い隠している。その姿を見ていると、何とも言えない気持ち……あ、こういうのを”やるせない”というのかな、収まりようのない事実を突きつけられる。
 産んだって、その卵は無精卵だもの、孵らない。
 温めたって無駄なのに、ふっくら蹲っている一心な姿。
 可哀想に思えて、夫と「隙を見て卵を出そう」と言い合うも、取り出したら、卵が無くなったと悲しむかもしれず、それも可哀想で踏み切れない。
 躊躇する私たちをよそに、インコは1日おきに産んで、今ケージの隅には3つの卵が転がっている。増えるにつれて愛着が分散したか、3つだと抱ききれないのか、卵から離れている時間が多くなっている。ほっとするけれど、ほんの少しだけ、それはそれで寂しくもある。勝手だな、外野は。
 これからも時々産むのだろうか。ふと、自分と比べてしまう。子を産まずにきてしまった私。使う事のない子宮。同じ無駄でも、インコの方が偉い。偉いよ、力衣(りぃ、インコの名前です)。産んでも仕方ないとか、温めても仕方がないとか、そんな事を力衣は考えない。自らに備わった力を発揮するだけだ。
 以前から考えていた。産むとか産まないとか産みたいとか、思い煩うのは生き物の中でヒトだけだ。しかも、さも自分の意志で決められる事のように。
 ”授かる”という言葉はそういうことかと今更ながら腑に落ちる。

もしや”褒めて伸ばそう”と?

 なんでかな、夫はやたらと……こんな良い事にこんな言葉を使うとバチが当たりそうだが……やたらと「ありがとう」を言ってくれる。
 朝。ご飯が出来たよと起こしに行くと「ありがとう」、食卓に着いて「ありがとう」、食べ終わって「ありがと、ごちそうさま」、その食器を下げようとする私に「ありがとう」、「着ていく肌着、ここに出したよ」「ありがとう」、猫の飲み水を換えてたら「ありがとう」、……
 夜。お迎えに出た私に「ありがとう」、鞄から空のお弁当箱と水筒を出して「ありがとう」(←お弁当箱はウェットティッシュできれいに拭いてある)、「お腹空いたでしょ、すぐご飯にするね」「ありがとう」、「ご飯出来ますた~」「ありがとう」、食卓に着いて「ありがとう」、食後おやつを持ってくると「ありがとう」、歯ブラシに歯磨きを付けて渡すと「ありがとう」、布団に寝そべる夫に「もう本読まない?電気消していい?」「ありがとう」。
 夫婦円満の秘訣として”親しき中にも礼儀あり、ありがとうの言葉を忘れずに”なんて聞くけれど、多すぎない? そんな大したこともしてないからこっちがかしこまっちゃう。で、思わず「ありがとうを言ってくれ過ぎだよ」と返してしまったことが何度かある。或いは「ありがとうは病気持ちで家でごろごろしてる私のほうなのに、アナタのほうが多いのはおかしいようっ」と。うん、私より絶対に多く言ってる。
 結婚して20年余、元々行儀の良い人だったけれど、初めはこんなにも言ってなかったと思う。多くなったのはここ数年だろうか。お義母さんが亡くなってからではないかしら。
「ねえ、ひょっとしてお義母さんが亡くなる前に何か言ったの、お嫁さんを大事にしなさい、とか?」
「いいや、なんにも」
 分からない。とにかく私も「ありがとう」を言い忘れてないかを時々点検する。

 いやそれよりも、有り難く受けて”妻”業を頑張ればいいんだろうけれど、気になるよねぇ。

ちょっと、凄かった 結び

 1年半ぶり。駅から7,8分の何でもない道が遠い。25分かかって辿り着く。繁華街に名医が開くクリニックはコンパクトで、待合ベンチのすぐ前に診察室と処置室。診察室の扉が開き、看護師さんに呼ばれ、返事をしたものの立ち上がるのに数秒かかり、そこから扉までの2メートルほどを歩く姿が人目を引いた。
 「どうしたんや」と優しく尋ねてくれる先生の前に座って、「勝手をしてすみません、一生薬漬けかと思うと嫌になって、反抗期とでも言いましょうか。また診て頂きたいのですが…」と言うと、先生は半ば呆れ、「反抗期はいいけどキミからだ壊れちゃうよ」とそれでも笑ってくれた。
 先生は名医で患者が多く、以前の月に一度の通院では、いつも診察の時間は1,2分だった。
「調子はどうですか」「はい特に腫れたりせず落ち着いてます」「いいね、薬のコントロールが上手くいってるね、前回の血液検査の結果もいいよ、この調子で。じゃ隣で注射ね」「ありがとうございました」
 先生は鷹揚だが、さらさらと流れるこのやり取りの中で、ちょっと訊きたい事があっても言いそびれるのが常だった。
 しかし、この度もう先生には取り繕うものなんか無くなった。正直に、今後はなるべくステロイド薬を飲みたくないと言えた。それに対しても先生は理解を示してくれた。
「分かった。ただ今はすぐにでも炎症を抑えたいからステロイドは仕方ないよ、とりあえず即効性のある注射を打つよ、今後の治療は様子みながらやっていこう」
 それがお昼頃で、夕方にはもう膝の痛みが和らいで、動きやすいのだ。帰宅した夫に吉報を聞かせることが出来た。夜は久しぶりに落ち着いて眠れた。そして翌朝、いつものように夫の着替えを用意しようと、洗面所の鴨居に掛かったYシャツのハンガーへ、手を伸ばしてひょいと下ろし……、 私今ひょいと取った? ひょいと取った! すっと手が上がって、さっと取った!! だって、取れなかったもの、手が上がらなかったし、yシャツのハンガーを掴むのが激痛だったし、重かったし、ゆっくりしか下ろせなかった、それをなんでもなく取った!!!
 驚きの次の瞬間、こんな簡単なことも出来なくなっていたのかと思ったら、声をあげて泣きだしてしまったので、夫が飛んできた。それで「ごめん、今ね、普通にハンガーに手が伸ばせたの」と訳を話したら、夫は「辛かったね、今まで辛かったね」と、泣き止むまで抱きしめてくれた。その腕の中で胸のうちで夫に沢山のごめんを言った。

 あれだけ腫れていた膝や足首は1週間でしぼみ、痛みも殆ど無くなった。薬の効きが空恐ろしくさえ思われる。あっという間に取り戻せた日常。しかし数か月に及ぶ苦痛の記憶は沁みついていて、何をするにも新鮮な喜びが湧いた。普通にバス停まで歩ける、歩いても痛くない、難なくバスのステップを上がれる、席を立てる、階段が上れる、…。買い物に行っては、きゃ~牛乳と大根とキャベツを籠に入れてる!好きな物が買える~!私すご~い!荷物が重くても肩が痛くない♡ と一々胸がときめいて。さすがに一年を過ぎた近頃は薄らいできていて、それが残念でならない。
 昨年7月再開から、以前と同じく月に一度の通院で注射と処方薬を受ける。体重は冬から戻り初めた。足指の付け根関節は数年前から変形していて、親指は酷い外反母趾、残り4本指も亜脱臼状態、右足の親指は既に4年前から人工関節であったが、今年2月に左足親指関節もいよいよになり、ひと月の手術入院。退院後は2か月間、左右別サンダル生活を送った。
 マジで酷かった昨春からの数か月、退職、医薬再開からの1年余は、夫に気遣われるばかりの、自分が病人なのか健常なのか、何をどこまですればいいのか、量りかねてふわふわと過ごしてきてしまった。 
 私の挑戦は”一時の反抗期”の形に終わっている。後に残るは、敗北感と、夫に対する思い。一生アタマが上がらないな(笑。
 ならば、あれは何だったのか無駄だったのかと自問してみるも、これは夫にだけは申し訳ないのだが、やってよかった、と思っている自分がいる。人生の寄り道回り道ではあるが、あんな経験は出来るものではない。自分の心へ問い続ける日々、暮らしの動作一つ一つの味わい、医薬への思い。
 もし病気が治っていたら、私は医薬というものを紙屑のごとく軽んじ、病に悩む人を弱い人だと決めつけただろう。尤もこんな心持ちでは病なんか治る訳がなかったと、これも後になって分かることだ。医薬というものは有史以来、大事な人を助けたいという、これも人の心が育んできたもので、成分以上の愛念が籠っているのだ。
 お隣のSさんに借りた書によれば、愛は正しさに勝るとあった。宇宙の理念、摂理、正しい心がこの世界を創り出す。その働きはすべてが調和して運ばれなくてはうまくいかない。正しさにさえ心が縛られてはならないという。私の敗因はこの辺りと、捨てきれない病への恐怖心との雁字搦めを解くことが出来なかったことか。
 まだまだ心が調わない私は医薬の助けを受けて生きていく。しかし、いつかもう一度挑みたいと思っている。

ちょっと、凄かった 続き×4

 昨年の3、4月頃には歩き方を誤魔化せなくて、仕事先で「酷いねん挫で」と言い訳した。体調の事を、同僚には話せても、取引先には言えない職種であった。電車に乗っての行き帰りがキツいだろう、ひとりでは行かせられないと、夫が可能な限り送り迎えをしてくれるようになってしまった。その時点で受けていた6月の仕事まではやり遂げて辞めることを決めた。
 またこの頃から目立って痩せ始めた。自分の腕を見てぞっとした。骨と皮。ずっとぽっちゃり目だったから、肩の骨がとがって浮き出ているのを夫が見て驚いた。炎症のなせる業だ。体中の至る所が熱を帯びていた。そのエネルギーに体脂肪がどんどんと使われるのに、食欲は減っていく。じっとしていても痩せていくのだ。
 私は、自分を情けなく思っていた。病は心の持ち方次第で消える筈なのに、そのことを心底信じられれば消える筈なのに、いつまでたっても囚われたままの自分をふがいなく思っていた。きっと潜在意識の中を、病気や恐怖、その他諸々のマイナスの気持ちがまだまだ大きく占めているのだろう。以前Sさんに聞いた事だが、一番大きな敗因は”恐怖心”なのだそうだ。病気から逃れたい、酷くなったらどうしよう、そういう思いが心の中に病気というものを強く印象し、表し続ける。治そう治そうと力むのもかえっていけない。本来ないものだから、なくそうと思う必要もないのだ、と。けれど、今現に手が足が痛い。と感じている。どうすればいい? 病を克服した経験談によれば、恐怖心を去るためには執着を捨てなければならない。死のうが生きようが成るようになれ…とことん追い詰められれば吹っ切れるか。
 夫の協力のもと仕事を終えた6月半ばから急速に悪化した。それでも私はまだ頑張りたかった。夫にこれ以上迷惑をかけられないと離婚や別居を考えながら、それまでは出勤する夫の為に最低限の家事だけはしようとした。しかし日に日に買い物に出かけることが苦しくなっていく。歩けない。苦しい。
 そして、忘れもしない6月30日。
 バスのステップを上った時、”あ、もう明日は無理かも”と思った。もう買い物にすら行けないかも。どうしよう。両足の足首は膝程の太さに腫れあがり、なぜか紫色になっている。こんなの、夫に見せられない。起きている間は靴下を履いて隠していた。
 が、その夜、靴下をこそこそ脱いで、早々に足元に二つ折りになった布団の中へ突っ込んで隠して、自分では布団を引っ張れないから、夫に掛けて貰おうと「ごめんなさい、お布団を…」を足元を指したところ、夫は「足が熱いのかい?」と布団を捲ってしまったから、「ああだめっっ」と叫んでしまったが、あとの祭り。
 紫色の足首を、夫は凝視した。ゆっくりと私の足先に触れる。「足首は熱いのに、指先は氷のように冷たい…、駄目だよこんなの…」と、私を見つめた。その私を心底不憫がる、悲しい表情を見て、私の心は折れてしまった。「もう頑張らなくていい、病院に行こう」と言った夫の言葉に、私は頷いた。
 終わった。
 翌7月1日、1年半ぶりにクリニックへ行った。……