春の経験回数

 そうか、私は春を48回経験したのか。

 そんなふうに捉えたことがなかったけれど、48歳ということは、春を48回過ごしたということで、そんなものか……なんだか少ないように思う。

 幸田文『闘』に、70歳の農夫を語ったこんな一説があった。

 「ひたすら農耕一筋に七十回の春秋を送り…」

 まもなく48回目の梅雨を迎え、明ければ、48回目の夏が来る。


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年2回しか会わない客の名を

 クリーニング屋さんの記憶力にびっくりする。
 そのお店には転居してきた数年前からお世話になっているけれど、自宅で洗えないほどデリケートな衣類がほとんどないから、足を運ぶのは年2回。

 それなのにだ。

 開け放たれた引き戸をくぐるなり、「あら○○さんだったわね、いらっしゃい」とすぐに店主の記憶の扉が開かれる。

 店主の女性はシャキシャキしておられるが70代後半と見える。こういっては何だがモノワスレが始まっていても可笑しくない。小さな店だけど住宅街の只中にあって客も多い。

 それなのに、だ。

 実は、以前お世話になったクリーニング屋さんも、やはり70代の女性だったが、同様の記憶力だった。

 客の、顔は見覚えていたとしても、名字がすっと出てくるものだろうか。クリーニング業界には客の名前に絡む記憶が強まる何かがあるのではないかと、いぶかしむようになった。


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かぐわしき哉、ことば

 単語が意味以上の響きやニュアンスを持つのだと思い知らされる。
 あやめる、という言葉。子供の頃からじいちゃんと時代劇を見ていて時々耳にしたが、ごく最近になって、”あれ…なんかうるわしい響きの言葉だなぁ”と感じるようになった。殺す、という恐ろしい意味なのに、あやめる、を使う時、そこには”已むに已まれぬ事情があって致し方なく…”という苦しい胸のうちが垣間見える気がする。かの高瀬舟のような。だから、昨今の通り魔、快楽殺人には間違っても当て嵌まらない。そういえば、時代劇にも近頃は滅多に聞かれなくなった。脚本を書くひとの世代交代だろうか。
 匂いというのは五感の中でも最も脳に深く繋がる感覚だと聞いた事がある。匂いの記憶は一生ものだと。”におう””かおる”、という二つの言葉を大雑把に区別するなら、良いものには”かおる”、好ましくないものには”におう”と私は考えている。けれど、”おかあさんはせっけんのにおいがする”なんだなぁ。”におう”のほうが普段着の言葉でもあるわけか。

 あ、これは論点がずれるんだけど、”その通りでも、あまり口にしてはいけない言葉なんだな”と思われた出来事。平日昼下がりの電車に乗り込むと、変な匂いがした。なんだろこれ…。とにかく好ましくないほうのものだ。私と一緒に乗り込んだ親子がいて、小学生の息子は母親に開口一番「くさいね、お母さん」と言った。「そうね」と母親は応じた。それから息子さんは、気になって気になって仕方がなかったのだろう、20秒おきに「お母さん、くさいね」を繰り返した。それは車内の全員の総意の筈なのだが、10回くらいになると、匂いよりもその言葉自体の不快感が漂ってきた。もう聞きたくないし、それを口にする男の子のほうがみっともないような感じになってきた。そしてそれは母親とても同じだったのだろう。息子の耳元に口を寄せ、小声で、しかし強く囁いた。
「くさいって言わないで」
 匂いというのは五感の中でも最も取扱いに注意を要するもののようだ。


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夫のフォロー

 夢を見ていた。仲間3~4人でお伊勢参りに行こうと、特急列車にわいわい乗り込むのだが、そこは夢、同行者たちは私の知らない人ばかり。実際にはアラフィフの私含め、全員が60オーバーだった。

 目が覚めると、先に起きていた夫が私の顔を覗き込んでいた。私の顔が笑っていたのか、それとも寝言を言っていたのだろう。私はついさっきまでの賑やかさの余韻の中にいて、ふふふと笑いながら、口を開いた。

「あのね、おばちゃん仲間で旅行に行く夢を見ててね…」

 すると夫がさえぎった。

「おばちゃんじゃないよ」

「え?」

「(私の名)は、おばちゃんじゃないよ」

 あらそこに引っかかる?と思ったが、そこを否定してくれたことが、その後時間がたつにつれてじわじわと嬉しくなったのだった。

 

 そういえば、姑が言っていたっけ。

「この子は小さい時、冗談ででも人を悪く言わなかったのよ。この子が3~4歳の時、パパが私に向かって『ママに言ってやれ、出っ歯の出っ尻って』とけしかけたら、この子はもじもじして言わないの。そういう優しい子だったわよ」

 

 年齢的にはおばちゃんと言って差し支えないのだけれど、夫は私をおばちゃんと見ていない、いや妻をおばちゃんだと認めたくないということかな。

 夫の思いに応えたい、そう感じて、今日は丁寧に洗顔している私。


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たらちね、な響き

「よろしゅうおあがり」

 看護師さんに言って貰ってはっとなった言葉だ。

 この春の入院中のこと。ご馳走様でしたと食器を返す患者たちに、ひとりだけ、「よろしゅうおあがり」と答えてくれる看護師さんがいた。

 そんな年配のひとじゃない。だけど、石けんと押し入れの匂いが混じった、お祖母ちゃんのフトコロを思い出させる響きがした。

 全く聞いた事のない言葉ではないから余計に心にかかるのだ。

 調べてみると、関西の方言で、「おあがり」と言っているけれど「召し上がれ」ではなく、「ごちそうさま」に対する答え。

 標準語にするならば「お粗末様でした」といったところだそう。

 因みに…”よくぞ私の料理を食べて下さいましたね”という意味なので、食べ残しがある場合には言わない、というのも面白い。

 夫に拵える、いつもはご飯のお弁当を、珍しくサンドイッチにしたところ、昼休みにラインが来た。

『おいしかった、ありがとう』

 照れくさくて、返信に迷って……使ってみちゃった。

『よろしゅうおあがり』

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